ゆびきり




弁慶が自室で書棚を整理していると、戸の向こうから声をかけてくる者がいた。
「弁慶さん、ちょっといいですか?」
「望美さん・・・?ええ、もちろん構いませんよ」
弁慶は、薬草と書物が溢れかえっている自室へ望美を招きいれた。夕餉も済ませて部屋に下がっていたはずなのに、どうかしたのだろうか。
「どうかしましたか?どこか体調でも・・・?」
夕餉のときもどこか沈んだような望美の様子が弁慶は気になっていたのだ。
「あ、いえ!わたしは元気なんです」
「『わたしは』ということは、君以外の誰か具合が悪いのですか?」
「あの・・・病気じゃなくて、ケガ、なんです・・・」
望美の話によると、最近彼女はこの梶原邸の馬場で乗馬の訓練をしていて、今日始めて野駆けに出たのだそうだ。
「途中まではすごく楽しかったんです」
「ああ、今日はよいお天気でしたからね」
秋晴れの空は澄み切って、頬を撫でる風は爽やかだった。そんな日に遠乗りにでかけるのはとても気持ちが良かっただろう。
さんと一緒に馬を走らせていたんですけど・・・」
望美の口から『』という名がでると、弁慶の眉がぴくりと動いた。
「彼女と一緒だったんですか?」
「あ、さんだけじゃなくて、九郎さんと景時さんも一緒だったんですけど」
というのは九郎に仕える武将だ。女の身で一軍を率いており、仲間の信頼も篤い。
「へぇ・・・楽しそうですね」
言葉とは裏腹に、弁慶の口調は楽しそうには聞こえなかった。望美はそれに気づかず、話を続けた。
「途中で草原に入ったんです。そうしたら、野うさぎが飛び出して・・・。
 わたしの乗った馬がそれに驚いてしまって、いきなり走りだしたんです」
戦場に出るなら馬術も必要だということで、最近望美が馬に乗る訓練をしていたのは知っていた。だが、それはごく最近の話で、望美が早駆けができるほど馬術が上達したとは聞いていない。
「でも、大丈夫だった・・・んですね、君は」
「はい。走り出した馬を追いかけて、さんが手綱をつかんで止めてくれたので」
「で、彼女がケガをしたと・・・?」
気落ちした様子で、コクリと望美がうなずく。自分のせいでケガをさせてしまったと思い、落ち込んでいるのだろう。
「手のひらがすごいことになってて・・・手綱が赤く染まって・・・」
おそらくは素手で手綱をつかんだのだろうと思われた。戦の時なら手甲をはめているだろうが、のんびりと野駆けに出たのであれば素手のままだったろう。
「で、彼女は?」
「弁慶さんに手当てしてもらいましょうって言ったんですけど、大丈夫だからって・・・」
弁慶はふぅとため息をつくと、頭が痛いとでもいうように自分の額を押さえた。
「それで、薬をわけてもらえないかと思って。前に弁慶さんにもらった傷薬がよく効いたのを思い出したんです」
「なるほど・・・望美さん、ひとつお願いがあるのですが・・・」
「はい?」
さんをここに呼んできてもらえませんか?」
「それは構いませんけど・・・」
「軍師としては、武将の傷の具合も気になりますからね。
 僕は治療の準備をしておきますから、彼女を呼んできていただけますか」
わかりましたと言って望美が部屋を出て行くと、弁慶は薬棚から薬をとりだし、包帯の準備をした。


「遅くなってすみません、弁慶さん」
「・・・・・・」
望美がを呼びに行ってから、結構時間が経っていた。望美と共に部屋に入ってきたは仏頂面をしていた。
「君のせいではないでしょう?彼女が素直に来なかった。そうですね?」
「・・・」
はプイと横を向いたままだ。その様子を見ていた望美は内心驚いていた。
九郎に仕えるは女性ながら一軍を率い、先陣を切って敵に切り込んでいく。それでいて、望美と朔を妹のように可愛がり、男ばかりの軍の中で快適に過ごせるように気を配ってもくれる女性らしい一面も持っている。
望美と朔にとってもは姉のような存在で、憧れるべき大人の女性でもあるのだ。それなのに、だ。
今のは大人気なく弁慶を無視するかのように、プイと横を向いている。
一方弁慶はというと、クスクスと笑っている。
さんは僕に怒られるのが嫌なんですよ」
「え?」
「弁慶・・・殿っ!」
からかうような弁慶の口調にの頬は赤くなっていた。それを見て、弁慶はクスリと笑った。
「彼女の手当ては僕がやりますから、望美さんは部屋に戻っていてください」
「でも・・・」
「神子様、私のことならご心配なく。この程度の傷、ケガのうちにも入りませぬ。
 明日も馬術の訓練がおありでしょう?早くお休みになってくださいませ」
「わかりました・・・」
しぶしぶ頷いた望美は、弁慶の部屋を静かに出て行った。その後姿を見送ったは深いため息をついた。
「ため息をつきたいのは僕の方ですよ。さ、傷を見せてください」
「たいした傷じゃない」
「いいから」
弁慶に睨まれ、はようやくケガをした手を差し出した。一応手当てはしているようで、緩くなってしまっているが包帯が巻かれていた。
「僕との約束を忘れてしまったんですか、君は?」
「・・・」
ゆっくりと包帯を解いていくと、痛々しい手のひらが現れた。それほど深くはなさそうだが、手綱と擦れたせいか皮膚がめくれてしまっている。
「痛みますか?」
「いや、そうでもない」
武将として戦場を駆け巡るにとっては、この程度の傷はたいしたことはないのだろう。
「傷を洗って薬を塗りますね。すこし沁みるかもしれません」
「ああ、頼む」
弁慶は慎重にの傷口を洗い、軟膏を塗りつけた。が顔をしかめたのは、傷が痛むよりも、軟膏の匂いが気に入らなかったかららしい。
「何が入ってる・・・?ひどい匂いだぞ」
「それは聞かないほうが身のためかもしれませんよ?」
「・・・」
嫌そうな顔をしたをクスッと笑い、弁慶は丁寧に包帯を巻きつけていく。
「・・・ったく。九郎と景時が一緒に居て、どうして君がケガをしているんです?」
「私の馬が神子様に一番最初に追いついたからだな。黒影号より速い馬はここにはおらん」
「それはそうでしょうが」
の愛馬『黒影号』はその名の通り漆黒の見事な馬である。気性が荒く以外の人間を乗せようとはしないが、その俊足は辺りに知れ渡るほどの名馬である。
「だからといって、こんなケガをするなんて」
包帯を巻き終えると、弁慶はケガをしていない方のの手首をつかみ、グイと自分の方へ抱き寄せた。
「っ!?弁慶・・・!」
慌てては離れようとするが、そこは男女の力の差というものがある。しかも、弁慶は荒法師と呼ばれていた男なのだ。いくらが女性としては力が強い方だとしても、弁慶に敵うわけがなかった。
「離せ・・・!」
「いやです」
「なっ!?」
を抱きしめる弁慶は落ち着いたものだが、は気が気ではなかった。
「誰かに見られたら・・・」
「誰もきませんよ。それに、声もかけずにいきなり戸を開けるような不調法な者はここにはいません。
 それに、僕としては誰かに見られて君が『僕のもの』だと知らしめたい気分ですがね」
「弁慶・・・」
困ったように自分の名を呟くのくちびるを、弁慶は自らのそれでそっと塞いだ。
「ん・・・っ」
何度も重ねたことのあるくちびるなのに、弁慶はその柔らかさに魅了されてしまいそうになる。たっぷりとその柔らかさを堪能したあと、ようやくくちびるを離すと、赤い顔でこちらを睨んでいるの顔があった。
「そんなに怒らないでください。君とふたりきりになるのは久しぶりでしょう?」
「それはそうだが・・・」
いま自分の腕の中で頬を赤く染めて寄り添っていると、戦場に立つは同じ人物なのだろうかと弁慶は思ってしまう。弁慶は腕を伸ばして、の髪を束ねていた組紐をほどいた。
ハラリと美しい黒髪がほどけて、キリリとした雰囲気が柔らかいものに変わる。弁慶は愛しげな表情を浮かべて、ゆっくりと滑らかな黒髪を指で梳いた。スルリと指から滑り落ちる髪を一房捕まえると、弁慶はそっとくちづけた。
「この髪のひとすじまでも僕のもの・・・僕はそう言ったはずなのに?」
「・・・・・・」
「それを傷つけるなんて、ね」
と弁慶は恋人同士だった。ただ、周囲には隠しているが・・・。
女性ながら一軍をまかされているということで、をやっかむ輩が少なからずいるのだ。中には、色仕掛けで取り入っているのだろうなどと暴言を吐くものもいる。そんな状況で、軍師である弁慶と恋仲であると知られるのは得策ではなかった。
とは言え、普段のちょっとした仕草や会話までも完璧に隠し通せるわけもなく、景時あたりはふたりの関係をうすうす感づいてはいるようだった。無論、そういうことに疎い九郎は何も気づいていないようだったが。
「仕方がないだろう。神子様は尊い御方だ。ケガなどさせては・・・」
「だからといって、君がケガをするのは僕との約束を破ったことになる」
「もしかして、怒っているのか?」
「ええ、少しは・・・。望美さんを助けてくれて、君に感謝しなければいけないのですが」
曖昧な笑みを浮かべた弁慶をはそっと抱きしめた。
「なら、矛盾を感じているのか・・・?」
「え・・・?」
胸のうちを言い当てられた弁慶は驚いて、咄嗟に表情を隠すこともできずにを見た。
「軍師としてのお前は、武将である私よりも龍神の神子殿の安全を優先する。けれど・・・」
「ええ、そうです。・・・君には敵いませんね」
確かにの言う通りだ。軍師としての自分は、武将のよりも龍神の神子である望美を優先する。
「軍師としての僕は望美さんの身の安全を優先する。けれど、君の恋人としての僕は・・・」
そこまで言うと、不意に弁慶は自嘲的な笑みを浮かべた。
「愛しい君を戦場に送り込むのも僕、君の身を案じるのも僕・・・矛盾の塊ですね」
「弁慶・・・」
「すみません、君に愚痴を言うつもりはなかったのですが」
「愚痴くらい、いくらでも聞いてやる。それに」
は身を起こして、弁慶をまっすぐに見つめた。
「私は軍師としてのお前を信頼している。私にはお前のような軍略はないから、
 せいぜいお前の駒となることくらいしかできないが」
・・・」
「お前なら一日も早く戦を終わらせてくれると私は信じている」
「ったく、君は・・・」
弁慶はもう一度を抱き寄せ、その柔らかな髪にそっとくちづけた。
「君は僕にやる気を起こさせる天才ですね。君の方が僕よりも策士かもしれないな」
腕の中のがクスクスと笑う。
「策士はお前だろう?お前の恋人になどなるつもりはなかったのに、まんまと策略にはめられたんだからな」
「策略とはひどいですね。僕の一途な想いに胸を打たれた、くらいにしておいて下さい」
クスクスと恋人達は楽しげな笑い声をたてた。
「戦が・・・」
「ん?」
「この戦が終わったら、君とふたりで静かに暮らしたい・・・」
は一瞬驚いて弁慶を見つめたが、ふっと柔らかな笑みをうかべた。
「ああ、そうだな。おまえと暮らすのは楽しいかもしれないな」
戦はこれからどんどん激しくなるだろう。そんな状況で、自分はを守りきれるのだろうか?
いや、そもそも軍師として自分は源氏軍を勝利に導くことができるのだろうか・・・?
不意に浮かんだ恐ろしい不安に、弁慶の表情は自然と険しくなっていた。
「どうした?私の言葉が信じられないのか?」
「え?・・・いえ、そうではありませんよ」
険しくなっていた表情をほんの少し緩めた弁慶に、は右手の小指を差し出した。
「・・・ゆびきり?」
「そうだ。破ったら、針千本飲ますぞ」
茶目っ気のある笑みを浮かべたに、弁慶はクスリと笑みをもらした。
――本当はふたりともわかっている。こんなふたりきりの穏やかな時間を再び過ごせるという保障はどこにもないのだ、と。
明日は戦場で勝者となっているかもしれない。明日は戦場で冷たい骸をさらしているかもしれない。
「ええ、約束しますよ。この戦が終わったら、一番に君を攫いにいくと」
「ああ、約束だ」
絡めた指先が永遠にほどけなければいい・・・。
恋人達は同じ想いを抱きながら、互いの腕の中でひとときの逢瀬を楽しむのだった。


――いつか春の野を君と往こう。
穏やかな日差しをあびて、どこまでもふたりで歩いていこう・・・。




【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
初書き弁慶さんでございます。。。
最初は『策士の策』というタイトルで書きかけたのですが、策が浮かばず失敗・・・。
この設定でも結構書いてますね(^^;)

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 2007年6月16日