賭けを、しよう
「望美、いるかい?」
「ヒノエくん・・・?」
勝浦の宿でのんびりとしていた女性陣の部屋を訪れたのはヒノエだった。
ここまでの長い旅で疲れもたまっているだろうということで、今日はこの温泉宿でのんびりしようということになったのだ。皆、それぞれの部屋を与えられ、ゆっくりとくつろいでいる。
望美は朔と同じ部屋で、ゆっくりとお茶を飲みながらおしゃべりを楽しんでいた。
「どうしたの、ヒノエくん?」
「姫君たちさえよければ、那智の滝でも見に行ってみないかい?」
「那智の滝?」
「ああ。せっかく勝浦まで来たんだから、見に行かない手はないだろう?」
ここまでかなりの強行軍だったため、本音を言うとかなり疲れていた。が、『那智の滝』と聞いて、望美は行きたい気持になっていた。
「那智の滝かぁ・・・。確か日本一の高さなんだよね」
写真では見たことがあるけれど、実物を見たことはなかった。
「ねえ、朔?一緒に行ってみない?」
「そうね・・・。わたしは遠慮しておくわ、少し足が疲れてしまって。
ヒノエ殿と一緒に行ってらっしゃいな」
今日は天気もよく、抜けるような青空だった。部屋でじっとしているのはもったいない。
「行こうぜ、神子姫様?たまには気分転換もしないとさ」
「そうだね」
ふたりが連れ立って部屋を出たところで、と出会った。
というのは九郎に仕える武将である。女性ながら一軍を任されているが、今は同じ女性ということで望美の警護役となっていた。
「神子様、どちらへ?」
「ヒノエくんと那智の滝を見に行くんです」
楽しげに言う望美に、は一瞬考えるような表情を見せた。
「それでは、私もお供させていただきます」
「え!?アンタも来るのかよ?」
「神子様の御身をお守りするのが私の役目ですから」
正直なところ、ヒノエはこの生真面目な護衛役が少し苦手だった。華やかに着飾れば美しいだろうに、は全くそんなことには関心がなさそうだった。長い髪は無造作に結い上げられ、男物の装束を身に着けている。女性にしては長身で、キリリとした顔立ちをしているので、似合っているといれば似合ってはいるのだが。
「もしかして、その格好でくるワケ?」
「何か問題が?」
ヒノエに頭の先からつま先まで確認するように見られ、は思わず自分の服装を確認していた。
長旅で少々くたびれてはいるが、清潔にしているし、機能的で動きやすい。神子に何かあったとしても、とっさに剣をとって戦うのに何も問題はない。そのはずだ。
「・・・その格好でこられると、目立ちすぎるんだよな」
「私が?」
ヒノエの言葉の意味がわからず、が望美の方を見ると、望美は困ったように小さくうなづいた。
「その・・・なんて言うか・・・人目をひいちゃうんですよね」
「そうなのですか・・・?」
男装の麗人というわけでもないだろうが、男装束のはある意味中性的な妖しい魅力を醸しだしていて、衆目を集めてしまうのだ。
「そういうこと。アンタが目立つってことは、一緒にいる望美も目立つってことさ。
あんまり派手に動いて、平家の奴らに目をつけられたくないからな」
「・・・・・・」
考えこんでしまったに、ヒノエはある提案をした。
「じゃあさ、俺が姫君たちの衣装をそろえてこよう。それに着替えてから出掛けるってのはどうだい?」
は渋々承諾するほかなかった。
「・・・ヒノエ殿」
「なんだい、?」
満足げな笑みを浮かべているヒノエに、は困ったように言った。
「これでは返って目立つような気がするのですが?」
ヒノエの選んできた衣装は、望美には淡い桃色、には紅色の美しい着物だった。少しひんやりとした滑らかな手触りは上質な絹に違いない。こんな短時間に、こんな高価な装束を二揃え、整えられるヒノエは何者なのだろうか。
いつの間にか探るような目になっていたのかもしれない。ヒノエは肩をすくめてみせた。
「よく似合ってるぜ、ふたりとも」
望美は美しい衣装にはしゃいでいる。は小さくため息をついた。
――神子様がお喜びなら仕方がない。
龍神の神子である望美を守るのが自分の務めだ。今さら、こんな女装束を身に着けるとは思わなかったが・・・。
「ああ・・・アンタにはまだ足りないものがあるな」
「足りないもの?」
首をかしげたに、ヒノエの手がすっと伸びてきたかと思うと、髪を束ねていた組紐がほどかれ、長い黒髪がハラリと肩に広がった。
「それからもうひとつ」
ヒノエの手の中にあるのは小さな貝殻に入った紅――ヒノエの指が器用にのくちびるをなぞった。
「これで完璧、だろ?」
「わぁ!素敵です、さん!」
そこに居たのは勇ましい女武将ではなく、妙齢の美女であった。
「じゃあ、そろそろ行こうか、姫君たち?」
着慣れない装束に落ち着かない気持がするが、仕方なくはヒノエと望美の後をついていくのだった。
ヒノエと望美と、三人が連れ立って那智の滝へと向かっていると、声をかけてくる者がいた。
「おや・・・これは、これは。三人でどちらへお出かけですか?」
「ゲッ・・・なんでアンタがこんなところに居るんだよ?
平家の動向を探るとか言って、出掛けたんじゃなかったのか」
三人に声をかけてきたのは弁慶だった。
皆がのんびりとしている中、弁慶はひとり情報収集に行くと言って、朝早く宿を出たのだった。
「偶然ですよ。勝浦はにぎやかですが、それほど大きな町ではありませんから」
にっこりと微笑む弁慶とは裏腹に、ヒノエはすっかりご機嫌ななめだ。
「わたしたち、那智の滝を見にいくところなんです。よかったら、弁慶さんも一緒に行きませんか?」
「ちょっ・・・望美!?」
余計なことを言うなと止める間もなく。弁慶はにっこりと笑った。
「ええ、ぜひ。僕も勝浦は久しぶりですから」
「ったく・・・せっかく両手に花だと思ったのによ」
「何事もそう思い通りにはいきませんよ、ヒノエ」
「チッ!行くぜ、望美」
「あ、ヒノエくん・・・!」
ヒノエは望美の手を取り、スタスタと歩き出した。
「じゃ、僕たちも行きましょうか、さん?」
にっこりと微笑んではいるが目が笑っていない弁慶に、内心冷や汗をかくだった。
山の向こうに滝が見えてきた。前を行く望美とヒノエが楽しげに滝を指差しているのが見えた。
「で、どうしてこんな状況になっているのか、説明してもらいましょうか?」
「そ、それはだな・・・」
周囲には隠しているが、弁慶とは恋人同士だった。今は戦の最中であるし、女性ながら一軍を率いるをやっかむ輩もおり、軍師である弁慶と恋仲であると知られるのは得策ではないと、の方から弁慶に口外しないように頼んでいるのだ。
そのことが弁慶には不服なようで、ふたりきりになると途端に独占欲を露にする。そして、たぶん今も。
「へぇ・・・それで君はヒノエが選んだ装束を着ているわけですか」
「そ、そうだ」
冷や汗だらだらのである。これは機嫌を直してくれるまでにかなり時間がかかってしまいそうな気がする。
前を行くヒノエと望美の姿が少し遠ざかったような気がして、は慌てて追いかけようとしたのだが、弁慶はその手をつかんで止めた。
「離せ、弁慶!神子様に追いつかないと・・・!」
「大丈夫ですよ」
確かに滝へ向かう道は一本しかなく、迷う心配はまったくなかった。だが、高い木が生い茂り、薄暗い山道ではその姿を見失ってしまいそうだ。
「大丈夫ではない!先ほどから何者かの気配がするのだ。
神子様を狙う曲者かもしれぬ」
懐に忍ばせた小太刀に手を伸ばすに、弁慶は感心したような表情を浮かべた。
「さすがですね、気づいていましたか」
「弁慶・・・?」
弁慶は山道の脇に向かって叫んだ。
「お前達は先に行け!神子と別当をお守りするのだ!
僕達は後から行く」
ガサリ、と風もないのに木々の枝が揺れた。ハッとして音のした方向を見たが、何もいない。それを合図としたかのように、いままで周囲にあった奇妙な気配がすっかり消えてしまった。
「気配が消えた・・・?」
「ええ、あれは『烏』です」
「カラス?」
「熊野別当の密偵のようなものですよ」
「ちょっと待て!・・・弁慶、お前、『神子と別当を守れ』と叫んだな?」
「ええ」
それがどうかしましたか、とでも言いたげな弁慶をは睨みつけた。
「何を隠している?・・・まさか」
「ええ、ヒノエは熊野別当です」
「っ?!」
いつもあまり表情を変えない恋人の、心底驚いた顔を見て弁慶はくすっと笑った。
「望美さんにはまだ秘密にしておいてくださいね。ヒノエは望美さんを驚かせたいみたいですから」
「・・・本当に驚いたぞ」
熊野別当が代替わりしたとは聞いていたが、それがまさかヒノエだとは・・・。けれど、事実を聞いてみれば、ヒノエが短時間に高価な装束を揃えられたのも納得できる。
「だが、どうしてお前はそれを知っているんだ、弁慶?」
ジロリと横目で睨まれて、弁慶は肩をすくめた。
「彼は僕の甥ですから」
「甥!?」
「ええ。先の熊野別当は僕の兄です。そして、その息子がヒノエ」
「叔父と甥・・・」
はハァァと深いため息をついた。この恋人はいったいいくつ隠し事を持っているのやら。
「大丈夫ですよ。この熊野で、ヒノエが望美さんを誰かに傷つけさせることなど、絶対にさせませんから」
それに烏もいますしね、と弁慶は言った。
「だからと言って、神子様から離れるわけには・・・」
自分の任務に忠実な恋人に弁慶はため息をつきたくなる。せっかくふたりきりになったというのに・・・。
――最初は見間違いかと思ったのだ。
自分は勝浦の町を歩いて情報収集に励んでいたというのに、愛しい恋人は美しい装束に身を包んでヒノエと一緒に歩いていた。もちろん望美も一緒で、は神子である望美に同行しているだけなのだと頭では理解できるが、気持ちは割り切れない。
女性ながら武人であるは、弁慶がいくら勧めても女性らしい格好をしたことはなかった。唯一、ふたりきりで居るときに、きつく結い上げている髪を下ろしてくれるだけ・・・。弁慶はその黒髪を梳くのが好きだった。その姿を見れるのは自分だけの特権なのだと思っていた。
ところが。
偶然見つけた恋人は、長い髪を下ろし美しい装束を身につけ、くちびるに紅までさして、町を歩いているではないか。自分が男達からチラチラと視線を送られていることなど、まったく気づいていないのだろう。
ヒノエに無理やり着替えさせられたのだろうと想像はつくが、気持ちのいいものではない。
「この山道には僕達と烏以外、誰もいません」
「え?」
「普段なら、この山道はもっと賑わっているんです。熊野詣にやってくる人々で」
そういえば静か過ぎる、とは思った。那智山の下の方では茶屋や土産物屋は旅人で賑わっていた。けれど、滝が近づいてくるにつれ、行過ぎる人々は少なくなって、ついには誰も見かけなくなっていた。
「おそらく、ヒノエが誰も入れないようにしているのでしょう。望美さんの安全のためと、
久しぶりの休日を静かに過ごさせてあげたいと思ったのでしょうね」
「熊野別当なら、それくらいのことはできるか・・・」
「ええ、そうです。だから、僕達にも邪魔は入らない」
「なっ?!」
あ、と思ったときには、山道の脇の大木に押しつけられていた。身体をぴったりと密着させ、弁慶はが逃れられないようにその両脇に手をついた。
「この装束を選んだのはヒノエなのでしょうね・・・」
「・・・あ、ああ、そうだと思う」
まずい、かなり機嫌が悪い。こういうときの弁慶はヒヤリとするような冷たい瞳をする。
「悔しいけれど、君によく似合っていますね。ヒノエの趣味の良さを、認めないわけにはいかないようですね」
「・・・・・・」
「けれど、この紅は・・・君に似合わない」
弁慶の手がすっと伸びてきたかと思うと、の顎にそえられ、強引にくちびるを重ねてきた。
「んっ・・・!」
いつもならもっと優しく触れてくるのに、弁慶は荒々しくくちびるを重ねてきた。
「・・・っ、やめ・・・っ!」
「駄目ですよ、まだ紅が残っている」
「・・・!」
ようやく弁慶に解放されたとき、は荒い息をついていた。頬は赤く染まり、紅は剥げ落ちていたが、きつく吸われたためかくちびるは赤く腫れあがっていた。
「町に戻ったら、君に似合う紅を贈らせてください」
「弁慶・・・」
は少し困ったように微笑んだ。それは、弁慶から紅を贈られても使うわけにはいかないからだ。
「もちろん、今すぐに紅を差してほしいとは言いません。でも・・・」
は小さく頭を振って、弁慶の腕の中をするりと抜け出して山道を少し駆け上った。
「待ってください、!」
ピタッとが足を止めた。そして、振り返らずに言った。
「弁慶!」
よく通る澄んだ声が木立に響き渡る。
「この戦が終わったら、お前のものになってやろう!だが、今はだめだ!」
「・・・?」
「この身は源氏軍のものだ」
くるりと振り返ったは艶やかな笑みを浮かべていた。
「弁慶!私が欲しいなら、一刻も早く戦を終わらせろ!
期待しているぞ、軍師殿!」
一瞬あっけにとられた後、クスクスと弁慶は笑い出した。
ああ、本当に君には敵わない・・・。
「忘れないで下さいね、今の言葉を」
「もちろんだ」
ニヤリと笑うに弁慶は苦笑する。自分にくちづけられて頬を染めていた女と同一人物とは思えなかった。
いま弁慶の目の前にいるのは、源氏軍の――ただの女ではない、優れた武将としてのだった。
「君には僕を本気にさせた責任を取ってもらわないといけませんね」
「いいさ、何でもしてやろう。軍師殿がどんな策略を見せてくれるか楽しみにしている」
――賭けを、しましょう。
君を手に入れるための、命がけの賭けを。
【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
調子に乗って、弁慶さん2作めです。長くてすみません〜!(汗)
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年6月16日