策士の策




弁慶は遠くから聞こえてくる馬の蹄の音に気づき、手にしていた書物を放り出すと慌てて立ち上がった。
ここにいることは九郎と景時にしか知らせていない。何かあったのだろうか・・・?

弁慶がいるのは鎌倉の郊外にある小さな一軒家だった。九郎が手配してくれたものである。
さほど広くない部屋は雑多な書物で埋まっている。弁慶はほんの少しでも興味のある書物はついつい購入してしまうからだ。
ところが、買ったはいいものの読む時間などまったくなく。ましてや整理する暇などなく・・・。わけのわからない書物や薬草で埋まった部屋をみて、九郎が『いい加減にしろ!』と一喝し、この家を手配してくれたというわけだ。
後白河法皇の取持ちで平家との和議を結んだいま、すこし休息をとるのも悪くないだろうと、弁慶は書物の整理も兼ねて休暇を取る事にしたのだった。
昼過ぎからずっと書物の整理をしているのだが一向に進まない。それというのも、ついつい書物を読みふけってしまうからだ。
・・・どうして・・・?」
「久しぶりだな、弁慶」
そこにいたのは弁慶の恋人――だった。



「なかなか良い酒だな」
「熊野から取り寄せたんです。それより、
「ん?」
「どうしてここに来たんです?」
すでに日は暮れ、弁慶とはささやかな食卓を囲んでいた。もちろん料理はふたりが用意したのではなく、近所の農家の主婦に頼んだものだ。
はどこから探し出してきたのか、酒瓶を取り出すと、勝手に一杯やりはじめていた。
「お前はここで何をしているんだ?」
「質問に質問で返すのはやめてくれませんか」
はもともと思ったことをストレートに口に出すタイプだ。そんな彼女が答えをはぐらかすのはどうしてだろうか。
今夜のは何かを隠している。弁慶はそう思った。
――素直には答えないでしょうね。
彼にはめずらしく深いため息をついた。


結局、は酔いつぶれてしまった。それもそのはずで、碌に食事をせず、次々と杯を重ねていたのだ。
弁慶はため息をつきたくなるのを堪え、を寝巻に着替えさせて布団の中に押しこんだ。
・・・眠れるわけがない。
隣の自室の布団の上で、弁慶は一向にやってこない眠りを待ちわびていた。障子一枚隔てた隣の部屋に、愛しい女が無防備な姿で眠っているのだ。そんな状況で眠れる男がいるのなら会ってみたいものだと思う。
色恋沙汰に鈍いのこと、弁慶がそんな風にまんじりともせず夜を明かそうとしているなど思いもよらないのだろう。弁慶は隣室で幸せな夢を見ているはずのに苦笑をもらす。
カタン・・・。
深夜のシンと静まり返った家の中に音が響いた。
・・・?どうしたんです?」
「・・・・・・」
スッと開かれた障子の影から現れたのは、当然のことながらだった。寝巻き代わりに着せた浴衣の胸元はしどけなく肌蹴られ、無造作に下ろされた長い黒髪と相まって、艶めいた美しさが弁慶を魅了する。
「気分でも悪くなったのですか・・・?」
は無言で弁慶のそばに腰を降ろすと、その身を預けてきた。
?」
「・・・約束を」
「はい?」
「約束を果たしにきた・・・」
は小さな声で囁くと、弁慶の首に両腕を回した。
っ!?」
「どうしてそんなに驚くのだ?」
弁慶の驚いた様子がおかしいのか、はカラカラと笑った。まだ酔っているのだろうか。
「それとも、私との約束を忘れたのか?」
「忘れるわけがないでしょう・・・」
しなだれかかってくるに戸惑いつつ、弁慶はため息混じりに答えた。
「戦は終わった・・・だから、僕のもとに来たと?」
「ああ・・・。お前のものになるために来た」
戦が終わったら、その身も心も弁慶のものになる――源氏の武将としての自分の役割が終わるまで『女』としての自分は存在しないのだとは言っていた。
「その割には、この世の終わりのような顔をしているのはなぜです?」
弁慶はやんわりとの腕をほどきながら、静かに言った。
「・・・・・・」
弁慶に正面から見つめられ、は堪えきれずに目をそらした。
「君の様子がおかしいことくらい、僕にはわかりますよ。
 ――本当のことを言いなさい、
はキュとくちびるを噛み締めた。酔った勢いで弁慶にしなだれかかってみたものの、弁慶にはお見通しだったわけだ。
「私の婚礼が決まったそうだ・・・」
「・・・・・・」
弁慶の眉がピクリと動いた。
「父がそう言ったのだ、お前の嫁ぎ先が決まったと。
 ・・・なぜ・・・なぜなんだ・・・?」
「っ?!」
の瞳から大粒の涙が零れた。苦しげな声で先を続ける。
「戦が終わって、ようやく自由に生きていけると思ったのに・・・。
 私には自由などないのだ。死ぬまで父上の駒でしかない・・・っ!」
父の命令で戦場に出、命がけで戦ってきた。女としての幸せなど、には遠いものだった。
それが弁慶と出逢い、愛し愛される悦びを知った。けれど、武将としての務めを果たすため、自分の気持ちをずっと抑えてきた。
長かった戦がようやく終焉を迎え、これから自由に生きていけるはずだったのに・・・!
「源氏の女がいいのなら他にもいるだろうに、どうして私なのだ・・・?」
・・・」
泣き崩れるを弁慶はそっと抱きしめ、溢れた涙をそっとくちびるで拭った。
「他の男のものになる前に、僕との約束を果たそうと思ったのですか?」
そうだ、とは力なく答えた。
「この話は頼朝様と政子様のお声掛かりだそうだ。父上に断るなどという選択肢はない・・・」
無論私にもだ、とは思った。父の駒でいることを厭いながらも、逆らうことのできない自分・・・。
今夜弁慶のものになってしまおうとしたのは、ささやかな反抗か。は自嘲的な笑みを浮かべた。
「今夜僕に抱かれて、そして、別の男の妻になると?」
「・・・・・・」
「僕がそんなことを許すとでも、君は思っているのですか?」
が答えられずにいると、弁慶はクスリと小さな笑い声を漏らした。弁慶が笑ったことには驚いて顔を上げた。
「弁・・・慶・・・・・・?」
「僕はね、君が思っているよりも、ずっとずっと欲張りなんですよ」
弁慶はの涙に濡れた頬にそっと手を触れた。
「君が僕に、その心もその身体も、与えてくれるということはわかっています。
 でも、それだけでは足りない。もっともっと、君が欲しい」
「それは・・・?」
は弁慶の言葉の意味がわからず、怪訝そうな顔をして弁慶を見た。一方の弁慶はというと、悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべていた。
「君はね、僕に嫁ぐんですよ」
弁慶は乱れたの髪をひとふさ手に取ると、そっとくちづけた。
「なっ?!」
「こんなに早く決まるとは思っていなかったのですが」
驚いて言葉のでないを弁慶はくすくすと笑った。
「先日、政子様に僕の切ない胸のうちを聞いていただいたんですよ」
「ま、政子様だと・・・?」
「ええ。女性はそういう話が好きでしょう?特に政子様の場合は、ご自身も頼朝様との恋を
 思い出されたのかもしれません。
 すぐに君の父上に話をしてくれるとおっしゃってくださったのですが、こんなに早いとはね」
「お前・・・まさか、政子様を利用して・・・?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。僕は恋の悩みを聞いていただいただけですよ」
澄ました顔で答える弁慶に、は言葉も出ない。
「僕に一度も涙を見せたことのない君がこんな風に泣くなんて・・・」
先ほどまでの取り乱した自分が恥ずかしくなって、の頬がカッと熱くなる。
「本当に僕以外の男の妻になるつもりだったんですか?」
「も、元はといえば、お前が何も言ってくれないから・・・!」
チラリと醒めた目で見つめられ、は思わず反論しようとするが、なんだかガックリと身体の力が抜けてしまって言葉を続ける気にならない。
「もう寝る・・・」
どことなく疲れの滲んだ声でそう言うと、は立ち上がろうとしたのだが。
「え・・・?」
クイと手首を掴まれたかと思うと、は天井を見上げていた。
「こんな夜更けに、そんな格好で男の・・・いえ、許婚の寝所を訪れて、
 何も起こらないと思っているんですか、君は?」
魅惑的な笑みを浮かべた弁慶に、はなんと答えていいものかわからず、まじまじと弁慶を見つめた。
戦場での駆け引きなら慣れているが、こういった状況はどうしたものかわからないのだろう。戸惑いを隠せないを弁慶は面白そうな表情で見つめていたが、す、と表情が真剣なものに変わった。
・・・」
弁慶の顔が近づいてきては思わず目をつぶったが、弁慶はをきつく抱きしめただけだった。
「君には僕をあげる・・・だから、僕に君をください・・・」
順番が逆になってしまいましたが、と弁慶は小さく呟いた。順番が逆というのは、の気持ちを確かめるよりも先に、ふたりの将来を決めてしまったことを言っているのだろうとは思った。
「弁慶・・・」
は弁慶の肩を少し押して距離をあけると、弁慶の顔を見つめた。
――その表情は真剣で、そしてほんの少しだけ不安そうな色が窺えた。
同じなのだ、とは思った。弁慶も自分と同じように不安なのだと。
心のなかで想っているだけでは伝わらない。だから、弁慶は言葉にし、行動に移した。ならば自分もそれに答えるべきだろう。
「弁慶」
は腕を弁慶の首に回して、そっと抱きしめた。
「私でいいのか・・・?」
「・・・君でなければ意味がありません」
迷いのカケラも感じられない弁慶の答えに、は柔らかな笑みを浮かべた。
「『夜叉姫』と呼ばれるような女だぞ、私は」
「なら、『荒法師』と呼ばれる僕にふさわしいのではないですか?」
似たもの同士というわけか、とはくすくすと笑った。
「私はお前のもの。お前は私のもの」
「ええ、そうですよ・・・僕は君のものです。そして、君は僕のもの・・・」
愛しています、という弁慶の熱っぽい囁きに、は同じ熱さで答えた。

――ふたりきりの夜は静かに更けていく。




【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
やっちゃった感タップリな創作です(^^;)
深夜3時に書いて、そのままアップしたという・・・。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 2007年6月16日