遠距離




「・・・」
「・・・」
「・・・」
「なぁ、千秋。動物園のクマやないんやから、ぐるぐる歩き回らんと、大人しゅう座っといたらどうなん?」
土岐蓬生はうんざりした顔で、控室のなかを落ち着きなく歩き回っている東金千秋を見つめた。
ここは『全国学生音楽コンクール ヴァイオリンソロ部門』ファイナルの控室だ。参加者にはそれぞれ控室が与えられていて、千秋の控室には蓬生と芹沢が居た。
蓬生はのんびりと椅子に座っているが、芹沢のほうは落ち着かない様子だ。それというのも、コンクール参加者である千秋がイライラとした表情で、控室の中をウロウロと歩き回っていたからである。
「今さら、緊張してるとかでもないんやろ?」
「そんなわけあるか!」
声にも苛立ちが感じられる。蓬生はヤレヤレとため息をついた。千秋がイラついている理由はだいたいわかっているのだが。
「さっきからケータイいじってばっかりやけど、どないしたん?」
と、わざとらしく聞いてみた。
「・・・メールがこない」
ぼそっと千秋が答えた。その間も千秋はケータイをいじっていて、メールチェックをしているらしい。
「誰から?ああ、センパイか」
「ああ・・・」
千秋をからかういいネタだが、そろそろ時間切れか。からかい過ぎて、演奏に影響が出てもよくないだろう。
センパイやったら、メール来てたで」
ほらと、蓬生はケータイの画面を千秋に見せた。
「2時間くらい前やったかなぁ?成田に着いて、こっちへ向かうて書いとるよ」
「っ!?」
千秋は蓬生からケータイを奪うと、メールを読んだ。それによると、飛行機が遅れて会場に到着するのがギリギリになると思う、と書いてあった。
「・・・どうして俺じゃなくて、蓬生にメール送ってるんだ?」
ジロリと千秋に睨まれて、蓬生は慌てて、違う違うと手を振った。
「ちゃんとメール読み?ケータイの電池なくなりそうって書いてるやん。俺にメール送ったあと、電池切れてしもうたんとちゃう?」
「・・・」
むっとした表情で千秋がこちらを睨んでいるが、これ以上説明のしようもない。
センパイには、受付で名前言うたら関係者席に案内してくれるって連絡してあるし。案外、もう席についてるんと違うか?」
「・・・」
千秋の表情がやや緩む。それを見計らったかのように、トントンとドアがノックされた。
「そろそろスタンバイお願いしまーす!」
スタッフの元気な声が聞こえた。千秋はすぅっと深く息を吸って、吐き出した。
「行ってくる」
「ああ。俺と芹沢も会場の方へ移動するわ」
頑張れよと肩をポンと叩くと、言われなくても、とニヤリと千秋は不敵な笑みを浮かべた。



――ステージの上ほど、孤独な場所はないと思う。泣こうが喚こうが、誰も助けてはくれない。頼れるのは自分自身だけだ。
暗闇のなか、たったひとりで千秋はステージに立っていた。ついいつものクセで、千秋は目を凝らして客席を見つめた。
ステージ上はまだ暗く、客席のほうが非常灯の光で若干明るい。

こんなに大勢の人間がいるのに、どうして俺はすぐにお前を見つけてしまうんだろう・・・?

向こうも千秋の視線に気づいたのか、ひらひらと手を振っている。どれだけ俺が心配したと思ってるんだ、と怒鳴ってやりたい気分になるが、こうして彼女がソロファイナルに駆けつけてくれたことが嬉しい。
、神南高等学校管弦楽部の『元』部長だ。千秋と蓬生が1年生の時、彼女が3年生だった。
の隣には蓬生、さらにその隣には芹沢が座っていた。が、いつも落ち着いている芹沢がどこか落ち着きがなく、チラチラとの方を見ている。その反応も当然で、はいま人気の新進気鋭のピアニストなのだ。
高校時代から国内のコンクールを総なめし、卒業後は国内の音大に進学したが、1年でそちらは休学して現在海外留学中なのである。さらには、留学先でも権威のあるコンクールで優勝し、今はあちこちのコンサートに呼ばれるような人気のピアニストになりつつあった。
パッとステージ上がライトに照らされる。すると、会場から大きな拍手と黄色い声援が起こった。
『どんなときでも、悔いのない演奏をしなきゃダメ。同じ音はもう二度と奏でることはできないんだから』
管弦楽部部長時代のの口癖だった。千秋はそんなことを思い出しながら、弓を構えた。



夏が終わった、と思った。けれど、悔いはない。今の自分にできる最高の演奏ができたからだ。
「だが、まさか地味子に負けるとはな。驚きだぜ」
「地味子ってなに?女のコをそんな呼び方してるの?」
「うわっ?!」
頬を思いっきり抓られて、千秋は思わず声をあげた。周りにいた星奏学院のメンバーも驚いて目を丸くしている。
ソロファイナルが終わったあと、なんとなく帰りがたい気分になったのか、会場のホール前で神南と星奏の面々が勢ぞろいしていた。蓬生以外の全員が、突然の闖入者に驚いている。
「千秋?ちゃんと説明しなさい」
「痛っ!わかったから離せ!」
はむっとしたような表情を浮かべ、さらにぎゅっと一捻りしてから手を離した。
「いてて・・・」
千秋は赤くなった頬をさすっている。隣の蓬生はこらえきれずに噴き出していた。
「ああ、紹介せんとあかんな。こちらはさん、俺らのセンパイや」
「っていうか、紹介するまでもないだろ・・・」
響也が信じられないというような顔をして言った。いつもあまり表情の変わらない律も驚いているようだった。
「あら、わたしって、結構有名人なのかしら?」
は楽しげに笑った。まっすぐな黒髪が揺れる。
「ホンモノ・・・。CDのジャケットと同じ顔だ」
響也のつぶやきを聞いて、はまた楽しそうに笑った。背中の中ほどまで伸びた真っ直ぐな黒髪、そして抜けるような白い肌――無論、その外見だけで人気があるわけではない。
「でも、海外にいるんじゃ・・・?」
「半分夏休み、半分仕事って感じかな。ソロファイナルの演奏が聞きたくて、かなり強行軍で帰ってきたんだけど、間に合ってよかったわ」
「そりゃ、彼氏の演奏を聴き逃すわけにはいかんし」
「ええっ!?」
星奏学院メンバーと芹沢から驚きの声があがる。
「ちょっと、蓬生っ」
カァッとみるみるうちにの頬が赤くなる。その身体がグイと引かれて、肩を抱かれた。
「そういうわけだ。手、出すんじゃねえぜ」
「千秋までっ!まったくもうっ」
バシッと背中をたたく手に容赦はない。かなり痛そうな音がしたが、それでも千秋はご機嫌なようだ。
「『クールでミステリアスなピアニスト』じゃなかったのかよ」
「演奏スタイルと性格が必ずしも一致するとは限らないだろう」
「真面目に答えんなよ、律・・・。それくらいわかってるって」
半分ひとりごとだったのに、真面目に律が答えるので、響也はため息をついた。すると、突然明るいの声が聞こえた。
「ねえ、みんなでゴハン食べに行かない?コンクールお疲れさまってことでお姉サンがおごってあげる」
「やったぁ!」
「おい、待てよ、っ!」
の提案に歓声をあげたメンバーがほとんどだったが、千秋だけは別のようだ。
「なによ、千秋?」
「帰るぞ」
そう言って、千秋がの手を掴もうとしたが、はすっとそれを避けた。と千秋が睨みあう。蓬生は、やれやれ世話の焼けることやと思いつつ、二人の間に割って入った。
「千秋、やめとき。姫さんには誰もかなえへんて」
「蓬生」
「なによ、せっかくゴハン奢ってあげるって言ってるのに」
子供っぽく、ぷぅっと頬をふくらましたをみて、蓬生はくすくすと笑った。このふたりのやり取りを見るのも、考えてみれば随分と久しぶりだ。
「千秋は、姫さんが疲れてへんか心配しとるんや」
「・・・」
「直行便やのうて、どこぞを経由してきたんやろ?えらい長いフライトやったんと違うん?」
「それはそうだけど・・・」
長いフライトで疲れているのは確かだった。けれど、久しぶりに日本に帰ってきて、コンクール出場者たちの演奏を聴いて、の心は弾んでいた。身体のことを考えたら、帰ってゆっくり身体を休めるべきなのだろうけれど、このまま帰るのはもったいないような気がした。もう少し、このひとときを楽しみたかった。
チッ、と千秋が舌打ちするのが聞こえた。先に折れたのは千秋の方だった。
「ったく・・・。和食がいいのか?それとも何か食いたい物でもあるのか?」
「え、えっと・・・中華が食べたい!横浜だし」
「フン、それなら中華街でも行くか。おい、如月!」
「なんだ?」
「うまい中華の店に案内しろ!」
「――ああ、そういうことなら俺が案内するよ」
「大地?」
千秋と律の間に割って入ってきたのは大地だった。
「律も俺も地元だけれど、たぶん、俺の方が中華街には詳しいと思うよ」
「よし、じゃあ、案内しろ」
「って、なんでそういつも偉そうなんだよ・・・」
ぼそっと響也が呟く。だが、それはスルーされ、千秋の言葉を合図に皆で中華街に移動し、賑やかな食卓を囲んだ。



「高校生の食欲をなめてたなぁ・・・。カードあって良かった」
は濡れた黒髪をタオルで拭きながら、ため息をついた。
久しぶりの日本での食事は楽しかった。皆が音楽をやっているせいだろうか、どうしても話題は偏ってしまうのだけれど、それがまた楽しかった。海外の生活にも慣れてきてはいたが、コンサートのためにあちこちを転々とする生活に少し疲れてしまっていたのかもしれない。日本語でかわす音楽論はよい刺激だった。
がいま居るのは星奏学院の寮だった。中華街で2時間ばかり賑やかな食事をしたあと、律が宿泊先の決まっていなかったを招待してくれたのだ。
「でも、部外者だけどいいの?」
「彼らも泊っていますから、問題はないと思います。あなたの身元はハッキリしているし。それに」
「それに?」
「神南のメンバーと一緒のほうがいいでしょう」
「・・・ありがとう」
が照れくさそうに答えると、律もほんの少し微笑んだ。海外を飛び回ってるが千秋に会うのは半年ぶりだったりするのだ。だから、ほんのすこしでも一緒にいられる時間が増えて嬉しい。嬉しい反面、怖い気もするのだけれど・・・。
「さすがに疲れたなぁ・・・」
帰国が明日だったら問題なく直行便のチケットが取れたのだが、どうしても今日帰ってきたくて、ヨーロッパからあちこち飛行機を乗り継いで帰ってきたのだ。
律の言葉に甘え、寮の一室に案内されたは早々に入浴し、ベッドの上で寛いでいた。千秋に会いに行こうかとも思うが、さすがに移動に次ぐ移動で疲れている。身体が疲れているから、気持ちも弱くなってしまっているのだろうか。
――千秋のことを考えると、胸が苦しくなる。
それは留学先でのクラスメイトの言葉のせいだった。
『半年も逢ってないの?!信じられない!そんなんじゃ、相手に新しい彼女ができていたって文句は言えないわ』
だって、好きで遠距離恋愛を選んだわけじゃない。悩んで悩んで、周囲にも、もちろん千秋にも相談して留学することを決めた。

千秋より音楽を選んだって、千秋に思われてるのかな・・・?

それは、が、千秋に一番聞いてみたくて、そして聞くのが一番怖い質問だった。だから、千秋が皆の前で『手を出すな』と言ってくれた時は嬉しかった。けれど、ふたりきりで逢う勇気がでない。横浜の中華レストランでも、千秋の隣に座ってはいたが、目をあわすことはできなかった。
「ハァ・・・我ながら情けないわね」
もう眠ってしまおう。は思った。一晩ゆっくり眠れば、明日は元気になっているはず。
眠るのなら明りを消さなければ、と思っていると、なにか音がしたような気がした。
・・・カツンッ!
空耳ではなかった。何かが窓ガラスに当たったらしい。が恐る恐る窓際に近づくと、またカツンと音がした。気のせいでないとわかると、は窓ガラスの外をそっと覗いてみた。
「千秋!?」
窓の外で、手をひらひらと振っているのは千秋だった。はあわてて窓をガラッと開けた。
「いったい何してるのよ、こんなとこで?!」
「シッ!静かにしろって」
よっ、と掛け声が聞こえたかと思うと、ひらりと千秋が窓から入ってきた。
「っ!?」
抗議の声をあげる間もなく、その腕の中へと抱きこまれてしまう。耳元で熱っぽい声が聞こえた。
「逢いたかった」
素直すぎる千秋の言葉に、は目を見張った。
「っ!」
わたしも、と言えればいいのだけれど、は恥ずかしくてとても言えなかった。だが、千秋はそんなことはお見通しだ。ほんのりと桜色に染まった頬はごまかせない。千秋はクスッと笑いながら、わざと音を立てて軽いキスをした。
「相変わらず、柔らかいくちびるだな」
「・・・バカ」
さらに真っ赤になったが愛しくて、千秋はもう一度ギュッと抱きしめた。
「おかえり」
「・・・ただいま」
照れくさそうにが言う。メールやチャットで頻繁に連絡を取ってはいたが、こうして直に逢って、その柔らかい身体を抱きしめているといっそう愛しさが募る。100回のメールより、1回の抱擁がどれだけ心を満たしてくれることか・・・。
律が貸してくれた寮の部屋には最低限の家具しかなく、ふたりはベッドに並んで腰かけた。
「どうした?」
が何か言いたそうにしているように千秋は感じていた。いつものらしくない。
「あのね・・・ソロファイナル、残念だったね・・・」
「なんだ、そのことか」
千秋が2位になったので、言い出しにくかったのだろう。本当なら1位を取って、海外からかけつけてくれたを喜ばせてやりたかったのにと、千秋を苦笑を浮かべた。
「1位が地味子だなんて癪だが、あいつの演奏は俺よりも上だった。後悔してるとしたら、もっと練習しておけばよかったってことだな」
「そっか・・・。でも、千秋の演奏、素敵だったよ」
はホッとして、小さくため息をついた。
千秋は一度負けたくらいでダメになってしまったりしない。敗北をバネに前に進んでいくことができる人間なのだ。そのことを、自分はよく知っている。
「せっかく帰ってきてくれたのに、悪かったな」
「ううん、千秋の演奏が久しぶりに聞けて嬉しかったよ」
の帰国は、本当は9月の予定だと千秋は聞いていた。それを10日も切り上げるために、はどれほどスケジュールを前倒しにしたのだろうか。長距離移動のせいだけでなく、はあまり元気がないように見えた。
「疲れているのか?」
「ううん、大丈夫・・・」
けれど、答えるの声は眠そうだ。それにどこか態度もぎこちない気がする。そして、何よりも目線をあわせてくれないことに、千秋は気づいていた。
「どうした?何かあったのか?」
あまりにもストレートに聞かれたせいで、は咄嗟に答えることも誤魔化すこともできず、黙り込んでしまった。
「ったく・・・」
「きゃっ!?」
肩に千秋の腕が回されたかと思うと、そのまま後ろへ倒されてしまった。
「千秋!?」
「何か悩んでるんだろ?さっさと吐けよ」
千秋に押し倒されたような体勢になって、はなんとか千秋の身体の下から這いだそうとするが、その腕に遮られてしまう。
「別に悩んでなんか・・・」
「あぁ?」
機嫌の悪そうな千秋にジロリと睨まれ、は観念するしかなかった。
「・・・留学先の友達に言われたの」
「なにを?」
「半年も遠距離恋愛なんて信じられない。きっと新しい彼女ができてるって・・・」
「ハァ?」
ますます千秋の表情が厳しいものとなる。はおろおろするばかりで、どうすることもできない。
「だから、千秋と話すのが怖くて・・・」
「すると、お前は、俺が他に恋人を作ってると言うんだな?」
「・・・」
「俺にはお前がいるっていうのに?」
ごめんなさい、というの言葉は最後まで紡がれることはなかった。荒々しく千秋のくちびるが重ねられ、は呼吸ができないほどだった。
「っ・・・千秋っ・・・」
「これでもまだ、俺のことが信じられないのか?」
真摯な瞳で見つめられ、はじわりと涙があふれてくるのを感じた。
「ごめ・・・っ。千秋と離れて、不安だったの・・・」
ついに泣き出してしまったを、千秋はそっと抱きしめ、柔らかな黒髪を撫でてやった。
自分で決めたこととはいえ、慣れない海外での生活はにとって、かなりのストレスだったのだろう。しゃくりあげて泣きだしてしまったの背中を、千秋は子供をあやすかのように優しく撫でた。
しばらくすると、はようやく涙も止まって落ち着いたようだ。千秋は、真っ赤になったの鼻先にチュッとキスを落とした。
「落ち着いたか?」
「うん・・・ごめんね、千秋。泣いたりして恥ずかしい」
「いいんだ。気にするな」
の黒髪を撫でてやりながら、チラリと時計に目をやる。日付が変わってずいぶん経つことに、千秋は気づいた。半年ぶりに逢った恋人とのふたりっきりの時間をもっと楽しみたかったが、残念ながら今夜はこれまでのようだ。
「お前も落ち着いたようだし、俺はそろそろ部屋に戻るか」
「えっ?!」
パッと起きあがった千秋を、は驚いた表情で見上げていた。
「千秋、帰っちゃうの・・・?」
上目遣いの潤んだ瞳で見つめられ、千秋はハァ〜ッと深い深いため息をついた。オマケに、千秋のシャツの裾をギュッと掴むというオプションつきだ。
「俺を引き留めたら、どうなるかわかってるのか、お前は?」
「え?」
意味がわからないという顔をして、が自分を見上げている。小日向かなでの天然っぷりにも驚いたが、もそうだったことを千秋は思い出していた。

・・・ったく。オトコの生理ってモンをまったくわかってねぇな。

「このまま俺がここに居たら、は朝まで一睡もできねぇぜ?」
「っ?!」
カァッと一瞬にして白い肌が朱色に染まる。ようやく意味がわかったらしいに、千秋はにやりと口元に笑みを浮かべた。
「ま、お前がそう言うなら、ご希望通りにしてやってもいいが」
「いや、あの、そのっ・・・」
真っ赤な顔をして、しどろもどろに答えるを見て、千秋はハハッと楽しそうに笑った。
「疲れて眠そうな女を襲う趣味なんてねぇよ、俺には」
そう言うと、千秋は身体を倒し、の隣にごろりと寝転んだ。
「眠るまで、そばにいてやるよ。明かり、消すか?」
「うん」
部屋の明かりを消したが、今夜は見事な月夜で、部屋の中は月明かりで意外に明るかった。
「・・・千秋のヴァイオリン、もっと聞きたいな」
小さな声でが呟く。もうみんな寝てしまったのか、寮はすごく静かで、聞こえてくるのは虫の鳴き声だけだった。
「近くにスタジオがある。ピアノも結構いいのを置いていたはずだ。俺も、のピアノが聞きたい」
「うん・・・千秋と一緒に演奏したい・・」
すぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。まるでスイッチが切れたかのように眠ってしまったに、千秋は苦笑する。まだ微かに湿り気の残る黒髪を指で梳いていると、愛しいひとがこの腕の中にいることを再認識できるような気がした。
「・・・怖がってんのは俺のほうや」
眠るを起こさぬよう、千秋は呟いた。
――最初に惹かれたのは、の紡ぎだすピアノの音色だった。そして、気がつけば、彼女自身にも心惹かれている自分がいた。
周囲に呆れられるほど――蓬生には『信じられへん』と言われた――熱烈に、そして強引にアプローチした。そんな風にしてやっと手に入れたが留学したいと言ったとき、千秋は悩んだ。この手を離してもいいのか、自分はこの手を離せるのか・・・。
結局、千秋は、の留学に賛成した。一流の音楽家を目指すならば、国内という狭いワクで収まっているわけにはいかない。そのことは、同じ目標を持つ千秋が一番よくわかっていた。
留学したがコンクールで賞を取り、それをきっかけにピアニストとして注目を浴びはじめたことは千秋も嬉しい。それとは反対に、このままが自分から離れていってしまうのではないかという不安もあった。けれど、そんな不安を口に出すことは、千秋の矜持が許さない。
「だから、お前が帰ってきてくれて、俺がどれだけ嬉しかったか・・・」
つまらない男の意地だと思う。だが、には自分の弱い部分を見せたくはない。いつでも強い人間でいたかった。

すぐにお前の居る場所に追いついてみせる・・・。だから、もう少し待っていてくれ。

固い決意を胸に、千秋は眠るの額にそっとくちづけた。そして、自分もゆっくりと目を閉じた。




【あとがき】
千秋さまです。誰がなんと言っても(笑)
コルダ3では神南チームが好きですね〜!今回悩んだのは、ヒロインを関西弁に
するか否か・・・。わたしも関西人のはしくれですが、神戸の言葉は全くわからず。
で、今回は標準語になりました。蓬生さんのセリフも難しいんですよね〜。関西弁
というより、京都弁ぽい気が・・・。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 2010年5月25日