不条理な
トントントンと任務明けとは思えない軽い足取りで、ゲンマは小さなアパートの階段を駆け上がった。
「・・・っと、そうだった」
ドアの横の小さなチャイムを押そうと手を伸ばしたのだが、ハッと思い直してジーンズのポケットを探る。カチャカチャと金属質の音をたてて出てきたのは、小さなシルバーのチャームのついた鍵だった。
その鍵を差し込んで回すと、カチャリとロックのはずれる音がした。それは当然といえば当然のことなのだが、ゲンマはついニヤついてしまう。それというのも、ゲンマの恋人であるが、
「失くしたら承知しないからね」
と、照れくさいのかちょっと拗ねたような顔をしながら、このの部屋の鍵をくれたのだ。そのことはよく覚えている。
カタンとわざと音を立てながらドアを開けると、明るい声が出迎えてくれた。
「あ、おかえりー!」
「おう」
「怪我してなーい?」
声はすれども姿は見えず――は狭い台所でなにやら一生懸命作っているらしい。空腹を刺激する匂いが漂ってくる。
「してねぇよ」
「あっそ!」
あっさりした返事しやがって・・・。
玄関を開けた瞬間に駆け寄ってきて抱きついて欲しい――とまでは言わないが、もうすこし恋人らしい所作を見せてくれてもいいのではないかと、ゲンマは我知らずくちびるをすこし尖らせた。
狭い玄関で靴をぬいで、リビングへと進む。背の低い家具ばかり置いているせいか、実際よりも部屋が広く見える。落ち着いたクリーム色で統一された部屋に、冬の今は暖かそうなオレンジ色のラグが敷かれていた。
「いい匂いだな」
「でしょ?久しぶりだから頑張っちゃった」
狭いキッチンに入っていくと、小さなテーブルには料理がたくさん並んでいた。は何やら炒め物を作っているらしく、せわしなく菜箸を動かしている。
「お、うまそう」
ゲンマは大きめの鉢にたっぷりと盛られたかぼちゃの煮物に手を伸ばしたが、パシッと菜箸で手を叩かれた。は一般人だが、こういうときには勘が働くらしい。
「いてっ」
「もう!つまみ食いなんてしないでよ」
コンロの火を止めて、がゲンマの方を向く。
「いーじゃねぇか。腹減ってんだよ」
「それなら余計によ!このお皿、向こうに持っていって」
キッチンは狭いので、ふたりで食事をするときはいつもリビングだ。はサラダボールを手にとって、ゲンマに渡そうとしたのだが。
「っ!?」
「ん?どうした?」
急に動きの止まってしまったの手からサラダボールを取ろうとしたゲンマだったが、その手をに振り払われた。
「ああ?なんだ?」
「もう、ヤダッ!ゲンマなんか、知らないっ」
ほんの一瞬前までにこにこと笑っていたのに、の表情はすっかり様変わりしていた。怒っているような、いまにも泣きだしそうな顔で、はゲンマを睨みつけていた。
「どうしたんだよ、?」
「帰って!帰ってよっ」
は両手でゲンマの身体をぐいぐいと押して、玄関の方へと追いやる。所詮は女の力なのだから、無理やりゲンマを追い出すことなどできないのだが、の態度の急変に驚いているせいか、ゲンマは押されるままに玄関先へと追いやられた。
「なんだよ、急に?どうしたっていうんだ?」
「・・・もう逢いたくないのっ!」
玄関のドアの前までゲンマを追いやると、は手を伸ばしてゲンマのジーンズのポケットを探り、銀色の鍵を取り出した。
「これも返してもらうわ。じゃあねっ!」
ゲンマを無理やり部屋の外へ追い出すと、は玄関の鍵をかけ、チェーンもかけてしまうと、急に力が抜けたかのようにその場にズルズルと座り込んだ。
コンクリートの三和土(たたき)はとても冷たくて、じわじわと冷たさが伝わってくる。けれど、はそんなことにも気づいていないようで、べたりと床に座り込んでいた。
「・・・くっ・・っ」
ずっとこらえていたのだろう、その瞳からぽたぽたと涙のしずくが落ちていく。
「・・・ゲンマのバカ・・・大キライ・・・」
任務で二週間も里を離れていて、ロクなものを口にしていないだろう恋人のために腕をふるったというのに、すべて無駄になってしまった。こんな状態でも自分が菜箸を握ったままだったことに気付いて、はくちびるを歪めると、菜箸を壁に投げつけた。
「うっ・・・」
はくちびるを噛んで、もれそうになる嗚咽をこらえていたが、それでも涙を止めることはできなかった。
ゲンマのバカ!バカッ!人の気も知らないで・・・っ!
サラダボールを渡そうとゲンマに近づいたとき、ふっと甘ったるい香りがしたのだ。フローラル系――たぶんローズの香りだ。いつものゲンマなら、絶対にこんな香りを身にまとっていることはない。
わたし以外のオンナとこっそり逢ってたんだ・・・。
ゲンマには男女問わず友人が多い。だから、ゲンマが女友達と飲みに行くと言っても、あらそうと答える程度で、は行かないでくれなどと言ったことはなかった。嫉妬もあらわに口うるさく言いたくなるのだけれど、ゲンマはきっとそんな恋人は面倒くさくて嫌だろう。そう思って、はずっと我慢していたのだ。
けれど、今回は2週間もの長期任務についていて、やっと帰ってきた。それなのに、里に帰ってきて一番最初に逢いにいく女性は自分ではなかったということがショックだった。
どこにも行かないで、わたしのそばにいて・・・そう言いたかったのに。
意地っ張りな自分の性格が恨めしい。もっと素直に気持ちを伝えていれば、ゲンマが他の女性になびくようなことはなかったのだろうか。
「・・・いつまでもそんなトコに座ってると、ケツが冷えちまうぞ」
「っ?!」
頭上から降ってきた声に驚いてパッと顔をあげると、そこに立っていたのはゲンマだった。
「な、なんで・・・?!」
自分の背後の玄関ドアはしっかりと鍵が閉まっているし、チェーンもかけてあるのだ。何よりも、自身がドアの前に座り込んでいたのだから、ゲンマが入ってこられるわけがないのだ。
「里の特別上忍をなめんじゃねぇよ。これくらい、忍びこめなくてどうする」
腕組みして立っているゲンマが呆れたように言う。は口をパクパクするばかりで、驚きのあまり言葉がでない。
「どした?ちったぁ落ち着いたか?」
ヒョイとかがんで、と同じ目線になると、ゲンマはその顔をのぞきこんだ。泣いたせいか、まぶたが腫れぼったくなっているし、頬は涙に濡れたままだ。その涙をぬぐおうと、ゲンマは思わず手を伸ばしたが、はパッと顔をそむけた。
「・・・他のオンナに触った手でわたしに触らないで」
「ハ?他のオンナ?」
訳がわからない。それよりも、が自分に触れられないように避けたことのほうが驚きだった。
「そうよ、他のオンナの匂いをぷんぷんさせてるじゃないっ!
そんな手で触られたくないもの!」
匂い、と小さな声で呟くと、ゲンマはぷっと吹き出した。いきなり笑いだしたゲンマに腹が立ったのか、はキッとゲンマを睨みつけた。
「匂いねぇ・・・オンナってのは敏感だな」
ククッとゲンマは喉を鳴らして笑うと、そっと手をのばして、の髪をかきあげた。
「オマエの方が、いつもの俺とおんなじ匂いがするな」
「っ!」
いつものゲンマは、爽やかでそれでいてどことなく甘いグリーン系の香りがするのだ。それは数種類のハーブを使ったシャンプーの香りで、任務のないときはゲンマはそれを好んで使っていた。
「だ、だって、ゲンマの髪っていつもツヤツヤしてて、
それにサラサラなんだもん。わたしも髪がキレイになるかと思って
同じシャンプー、使ってただけ!それだけよ!」
もその香りが好きで、ゲンマと同じシャンプーを使っていたのだ。同じものを使っているとゲンマに知られるのがなんだか恥ずかしい気がして、ゲンマが任務で里にいないとき限定だったけれど。
夜、ひとりでベッドに入ったとき、ふわりとシャンプーの匂いが香ることがある。眼を閉じれば、隣にゲンマがいるような気になれるのだ。そんなふうに寂しさを紛らわしているとゲンマに知られるのは、なんとなく気恥ずかしい。だから、いつもはゲンマのいないときにしか使わないのだが、昨夜はついいつもの習慣でそのシャンプーを使って髪を洗ってしまっていたのだった。
「ふぅ〜ん」
ニヤニヤと笑いながら、ゲンマはの髪を指先でクルクルといじっている。
「だから、触らないでってばっ!」
カッとしたは腕を振ってゲンマを突き飛ばそうとしたのだが、反対にその腕を掴まれて、ゲンマと一緒に玄関先の廊下に倒れこんでしまった。
「玄関先で押し倒されたのは初めてだな。オマエって、結構大胆?」
ゲンマの上に覆いかぶさるように倒れているせいで、その顔を見ることはできないのだけれど、その声音からしてゲンマはきっとニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべているに違いない。
「違うっ!」
ゲンマの態度も、鼻先をくすぐる甘ったるいローズの香りも、ムカムカする。は慌てて起き上がろうとしたが、ゲンマの両腕が身体に回されていて、身体を起こすことができない。
「離してよっ」
「・・・なぁ、オマエ、俺が浮気したと思ってんのか?」
「だって、そうじゃないの!」
なんとか起き上がろうとするが、両腕ごと抱きしめられているせいで、上半身を起こすことすらできない。が一生懸命もがいても、ゲンマの腕が緩むことはなかった。
「任務明けに他のオンナに逢って、それからオマエのとこに来た・・・って?」
「そうよ!」
「へぇ〜」
と、ゲンマは怒ったふうでもなく、どこか楽しそうにさえ聞こえる声で答えた。その反応に、はますます腹が立つ。
「あのなぁ・・・この匂いは、単にいつものシャンプーを切らしちまって、
試供品のを使っただけだぜ」
「っ!!」
「それに、俺はフタマタかけられるほど器用な性格じゃねえぞ」
オマエが一番知ってるだろーが、とどこか呆れたような口調でゲンマが呟く。はカァッと頬に血が昇った。それではすべて自分の勘違いだったというのだろうか・・・?
「だから、全部、オマエの早とちり、勘違い!
わかったか?ああ?」
「う・・・ご、ごめん・・・」
穴が入ったら入りたい気分だった。
確かにゲンマは二股をかけるようなタイプではないだろう。以外に好きな女性ができたなら、それを隠そうとはせず、に別れを告げるだろう。そんなゲンマの性格を一番知っているのは自分なのに、つい頭に血が昇ってしまったのだ。
「っていうか、オマエでもヤキモチ焼くんだな〜」
妙に楽しげな声で言うものだから、はますます恥ずかしくてたまらなくなる。
「だから、ゴメンって言ってるでしょ!」
ふたりはまだ床に倒れこんだままで、ゲンマに顔を見られずに済んでいるのが救いといえば救いか。けれど、真っ赤になった耳は見られているに違いない。
「オマエってさ、俺が他のオンナとふたりで飲みに行っても
なんにも言わねえだろ?だから・・・」
「だから?」
急に歯切れの悪くなったゲンマに、は首をかしげていた。
「・・・俺のことはその程度にしか好きじゃねえのかと思ってたからさ」
ぼそりと呟いたゲンマに、はそんな風に思っていたのかと驚いた。
「そんなこと・・・。だって、ゲンマはそういうの、面倒くさいと思う
タイプだと思って・・・」
「ああ?惚れたオンナになら嫉妬されんのも悪くねえだろ?
ま、度を超すと困るけどな」
「・・・じゃ、わたし以外のオンナとふたりっきりで飲みに行ったりしないで」
意地っ張りな自分の性格はよくわかっている。それでも、恥ずかしい気持ちを押し殺して、思い切って言ってみたのだ。すると、ゲンマは、ちょっと嬉しそうな、照れくさそうな声で笑った。
「いいぜ、オマエがそう言うんならな」
ゲンマはの身体に回していた腕をほどくと、両手での髪をくしゃくしゃにした。
「きゃっ!?何するのよ」
ふわりとハーブの香りが漂う。それがいつもより甘いような気がするのは、そこに自身の香りが混ざっているからだろうか。
「さすがに二週間は長いだろうが。ちったぁ大人しくして、
俺に補給させろよ、オマエをさ」
甘くかすれたような声で囁くと、ゲンマは両手をの頬に添えて、そのくちびるに口づけを落とした。
【あとがき】
えーと、失礼ですが、どちら様ですか?って感じです(笑)
もう1年以上前ですが、サイトの4周年記念リクエストで
ゲンマさんにリクエストをいただいてたんですね。
「いつも余裕たっぷりなゲンマさんが、主人公に振り回される(浮気を
疑われて追い出されるとか)」というのが、いただいたリクエストだった
んですが、主人公のほうが振り回されている気が・・・(汗)
コミックの在り処が不明で、自分で書いたSSを読み返して書いたという
ダメダメっぷりですが、お許しくださいませ゚゚(´O`)°゚
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2009年1月25日