初恋




「あら、いらっしゃい、一くん」
「ちわっす」
にっこりと微笑んで一を出迎えたのは、白シャツに黒いパンツ、そしてギャルソン風のエプロンをつけた女性だった。
放課後、一がやってきたのは大通りから一本奥まったところにある小さなカフェだった。あまり広くはないがテラス席もあり、その片隅ではゴールデンレトリバーが寝そべっていた。が、一の来訪に気づいたのかパッと飛び起きて、千切れんばかりに尾を振った。
「よぉ、元気にしてたか?」
「ワン、ワンッ!!」
「よーしよし、いい子だな」
大型犬とじゃれあっている様子はまるで襲われているようにしか見えない光景だが、当の本人達は楽しいらしい。は持っていたメニューの影でくすっと笑みをもらした。



一と知り合ったのは二週間ほど前だったろうか。飼い犬であるの散歩中、は不良たちに絡まれたのだ。
彼らとしてみたらをナンパしてるだけのつもりだったかもしれないが、見知らぬ青年達に囲まれては恐怖心を感じた。それでも怯えていると思われたくなかったので精一杯虚勢を張っていたが、足がガクガク震えてしまいそうになる。
「なぁ、オレらと遊ぼうぜ、おねーさん?」
「ちょっ・・・!?手を離してよっ」
誰か助けてと思っても、夕暮れのこの時間、奥まった路地を歩く人影はまばらだ。が救いを求めるような瞳で見つめても、見て見ぬフリで通り過ぎる人ばかりだ。
飼い主の危機を救おうとするのか、が低い唸り声をあげた。
「なんだァ、この犬?オレらに噛みつこうってのか?」
少年のひとりが足を振り上げ、を蹴ろうとする。
「やめてっ!」
ガッ!!
鈍い衝撃音が聞こえたかと思うと、を蹴ろうとしていた青年が地面に横たわり呻き声をあげていた。
「うぐっ・・・痛ってぇ・・・」
「――何してんだよ、テメェら」
「っ!?」
突然現れた青年は高校生のようだったが、制服をかなり着崩していて、は彼らの新しい仲間が現れたのかと思って震え上がった。
「何してんだ、って聞いてんだよ」
「く、草薙・・・べ、別に何もしてねぇぜ」
「そ、そうだよ、オレらは何にも・・・」
草薙と呼ばれた青年は荒んだ瞳で不良たちを睨みつけた。地面に倒れた少年は彼に軸足を払われたらしい。
「ふぅん・・・俺にはオマエがこの犬を蹴ろうとしてるみたいに見えたけどな」
「そ、そんなわけねぇだろ。なぁ、くさな・・・」
「――さっさと消えうせろ。目障りだ」
「お、おう!」
まさに蜘蛛の子を散らすとはこのことか。青年達はあっという間に逃げ去った。
「オイ、アンタ?」
「っ!?」
不良たちを追い払ってくれた青年がクルリと振り向いた。その険しい視線にはゴクリと唾を呑み込んだ。
「まだ外は明るいけど、こんな裏通りなんか通ってんじゃねぇよ」
「あ、あの、わたし・・・」
「ワンワン!」
「ん?なんだ?・・・ふんふん、オマエの散歩にきてただけだって?」
青年の表情が、一瞬にして荒んだものから驚くほど優しげな雰囲気に変わる。彼は膝をついてと同じ目線になると、その身体をうっとりとした様子で撫で始めた。
「そーか、っていうのか。カッコいい名前だな!」
「ワン!」
は目を見張った。首輪にもどこにもの名前がわかるようなものは書いていないし、この青年とは初対面のはずだ。
「あの・・・さっきはありがとう」
「ん?」
青年はを撫でながら顔を上げた。
「怖くてどうしようかと・・・」
「アイツらにしてみたら、単にナンパしようとしただけなんだろうけどな。
 この辺は夕方でも人通りが少ないんだ。アンタ、女のコなんだから気をつけろよ」
言い方はぶっきらぼうだが、のことを思って注意してくれるのはよくわかった。はホッとしたのか、気が抜けてヘナヘナとその場に座り込んだ。
「お、おい、アンタ!?」
「ご、ごめんなさい・・・足ガクガクしちゃって・・・」
「ったく、しょうがねぇなぁ。ほらよ」
「え?」
青年はしゃがんだ姿勢のまま、に背を向けた。
「おぶって家まで送ってやるってんだよ。さっさと乗れ」
「ええっ?!そ、そんなわけには・・・」
「ワンワンッ!」
「ほら、も早くしろって言ってんぜ」
「でも」
がためらっていると、青年はニヤッと笑って言った。
「なんだったら、俺は『お姫様抱っこ』でもいいんだぜ」
「ウッ・・・」
今頃気づいたのだが、青年は整った顔立ちをしていて、ニヤリと笑った顔もカッコいい。一瞬見とれてしまったの鼻先に背を押され、見知らぬ青年に背負われて家に送り届けられたのだった。



「いらっしゃい、一君」
「こんちは、マスター」
「オーダー取りに行ったまま戻ってこないから、どうしたのかと思ったよ」
「ごめん、兄さん」
マスターと一が呼んだのはの兄の亮平だった。両親がやっていた喫茶店を引き継いで、兄妹で小さなカフェに改装し切り盛りしているのだ。
と一、そしての姿を見て、亮平はクスリと笑みを漏らした。
「兄さん?どうしたの?」
「いやいや、お前が一君に背負われて帰ってきたときのことを思い出してさ」
「もう!そのことは言わないでって言ってるでしょ!」
の頬がほんのりと赤くなる。
「イケメンの高校生におんぶされて帰ってくるなんて驚くだろ?」
今となっては笑い話にできるのだが、の散歩に出たままが戻ってこず心配していたのだ。そんなところへ、カッコいい高校生に背負われてが帰ってきたのだった。どこかケガでもしたのかと焦ったが、そうではないと聞いてホッとしたのを覚えている。
「いや、俺は『お姫様抱っこ』でもいいって言ったんだけどさ」
「一くん!」
「ハハッ、わりぃ、わりぃ、さん」
に軽く睨まれて、一は笑った。けれど、一はふっと真顔になって言った。
「けどさ、気をつけなきゃいけねぇぜ?
 あの辺はもともと不良グループの溜まり場だったんだからさ」
「うん、気をつける。もう一人じゃ行かないわ」
「ああ」
よしよしと一はの頭を撫でた。
「・・・あのね、一くん?」
「ん?」
「わたしはこれでも一くんより年上なの!」
腕組みをしては一を睨んだが、一より頭ひとつ分低い身長ではまったく迫力がない。
「それはわかってるんだけどさ」
「?」
「なんつーか、時々すげー可愛く思えるときが・・・」
「っ?!」
かぁぁっとの頬が赤くなる。ククッと笑い声が背後から聞こえた。
「良かったなぁ、。お前を『可愛い』って言ってくれるのは一君ぐらいだぞ?」
「うるさいわよ、兄さん!」
どうしてだろうか、この場所はなぜだかとてもホッとする・・・。
目の前でじゃれあいのような兄妹喧嘩を見ながら、一はそう思った。と知り合ったのはほんの二週間前、このカフェにやってくるのはまだ三回目だ。けれど、落ち着いたカフェの雰囲気がそうさせるのか、それともオーナー兄妹の人柄がそうさせるのか、ゆったりとリラックスした気分になれるのだ。
あの『事件』から自分の行き場をなくしてしまった一にとっては、このカフェはバカサイユに次いで大事な場所になりつつあった。
「あ!オーダー忘れてた」
、お前な・・・」
「んもう、兄さんはカウンターに戻っておいて!」
「ハイハイ。じゃ、一君、ゆっくりしていってね」
ヒラヒラと手を振りながらカウンターに戻っていく兄の後姿を、はくちびるをちょっと尖らせて睨んでいた。その仕草は子供っぽいのに、淡いピンク色に染まったくちびるはなんだか色っぽくて、一はどきっとした。
「・・・一くん?どうかした?」
「っ!?い、いや、なんでもねぇよ。なんでもねぇ」
「そう?」
「ええっと、そうそう、今日はアイスカフェラテもらおうかな!」
「あ、はい。少々お待ちくださいね」
明らかに挙動不審な一を見ては不思議そうにしていたが、オーダーを取るとカウンターの方へと戻っていった。その後姿を見送って、一はハァ〜と深いため息をついた。
「・・・どっか悪いんかな、俺?」
なぜだか胸がドキドキして、鼓動が早くなるのだ。もちろんいつもというわけではなく、時々なのだけれど。
「クゥ〜ン・・・」
足元に鼻先をこすりつけてきたの首筋を撫でてやる。飼い主兄妹に似たのか、はのんびりした性格の犬で人懐っこい。
「ん?なんでもねぇよ、
 あ、そだ!また今度散歩に行くか?」
「ワンッ!」
「よし、じゃ約束な」
フカフカの毛並みを撫でていると、が注文のアイスカフェラテを持ってきた。
「はい、お待たせしました。アイスカフェラテです」
「ん、サンキュ」
グラスを受け取って、一が口をつけようとしたその時――。
「ハジメ、はっけ〜〜ん!!」
「うわぁ!?」
ぐわぁしっ!
「んも〜!放課後、バカサイユに行ったのに、ハジメ居ないんだもん〜!」
「く、苦し・・・」
一にいきなり抱きついてきたのは悟郎だった。いくら見た目は完璧に女のコだとしても、それなりに腕力はある。ぐいぐい締めつけられて息が苦しい。
「えと・・・もしかして、一くんのガールフレンド・・・?」
「いっ!?」
突然現れた女の子には目を丸くしていたが、その制服が一と同じ聖帝学園のものだとわかったらしい。
すっごく可愛いコ・・・。
その辺のアイドルなんて目じゃないくらいの可愛さだ。肌は透き通るように白く、一と一緒にいると非の打ち所がないカップルに見える。そのままCMにでも使えそうなくらいだ。
「え〜?ゴロちゃんがハジメのガールフレンド?
 やだぁ、ゴロちゃん、ポペラ恥ずかしいぃ〜」
「ち、ちがーうっ!ヘンな誤解しないでくれっ」
いつになく必死な一の様子に、悟郎はなにかピンときたようで、さらにいっそう身体をくっつけようとする。
「んもぅ〜、ハジメってば恥ずかしがっちゃって〜♪」
「だーっ!?よせ、離れろ、悟郎!」
どう見ても、イチャついている高校生カップルにしか見えない。なぜだか胸がチクリと痛んだような気がして、は胸元のトレイをぎゅっと握り締めた。
「違うんだ、誤解だ、さん!コイツは男なんだ!」
「え・・・?」
どこからどう見ても、可愛い女の子にしか見えない。にっこり微笑んだ顔もものすごく可愛い。
「悟郎、いい加減に離れろ!本気で怒るぞ」
「はぁ〜い」
これ以上やると本気で一が怒り出しそうだと思ったのか、悟郎はあっさりと身体を離した。一は悟郎に生徒手帳を出させると、バッとの目の前に広げた。
「ほら、これ見てくれ!『性別:男』って書いてあるだろ」
「あ、ホントだ・・・」
生徒手帳と悟郎をマジマジと見比べたが、の目には可愛い女子高生にしか見えない。
「でも、スカート・・・だよ・・・ね?」
「ゴロちゃんには女のコのお洋服が似合うでしょ〜?
 だから、女のコの制服着てるの!」
「そ、そうなんだ・・・」
「ま、いろいろあってな・・・。コイツは風門寺悟郎」
まだ不思議そうな顔をしているに、一は悟郎をそう紹介した。
「わたしはよ。よろしくね」
「ゴロちゃんって呼んでね〜」
人懐っこい笑顔に、思わずも微笑み返していた。
「ね、ね?ハジメは何飲んでるの?」
「ん?これか?アイスカフェオレだけど」
「じゃ、ゴロちゃんもおんなじのくださいな!」
「はい。少々お待ちくださいね」
はにっこり笑ってからカウンターへとオーダーを伝えに行った。
「ねぇねぇ、ハジメ?」
「なんだ?」
ちゃんって、なんだか可愛いヒトだね
「ぶっ!」
ちゅるるとストローでアイスカフェオレを吸い上げていたのだが、どうやら気管に入ってしまったらしい。一はゴホゴホと派手に咳き込んだ。
「なんでいきなり『ちゃん』なんだよ?!」
俺だって呼んだことないのに・・・という一の小さなつぶやきを悟郎は聞き逃さなかった。
「ふ〜ん、一にも遅い春がやってきたんだねぇ〜」
「春?なに言ってんだ、悟郎?もうすぐ夏だぞ」
ニヤニヤと笑う悟郎に、一は首をかしげた。
「ハジメってば無意識なのかにゃ?」
「ハ?全然意味わかんねーんだけど」
一は不思議そうな顔をしながら、アイスカフェオレをストローでかき混ぜた。カランカランと氷同士がぶつかりあう音がする。
「ホントに?」
「ああ」
悟郎の言葉の意味がよくわからず、ふと視線を泳がせてみると、少し離れたカウンターで氷を砕いているの後ろ姿が目に入った。おそらく、悟郎が注文したアイスカフェオレの準備なのだろう。
一としては何気なくそちらを見ていたつもりだったのだけれど、視線を感じたのか、がパッとこちらを振り返った。
目が合った――そう思った瞬間、はふわりと柔らかく微笑んだ。
「っ?!」
「んん?どしたの、ハジメ?」
さっきまで普通だったのに、一の顔がなんとなく赤くなっている気がする。それに、なぜか胸を手で押さえていた。悟郎は首をかしげながら、一の視線の先を追った。そして、はは〜んと納得する。
「・・・なぁ、悟郎。俺、もしかしたら、なんか悪いビョーキにかかってるかもしんねぇ」
「は?」
「ここ最近、突然胸がどきどきしたり、なんか苦しくなったりするんだよな」
病院行ったほうがいいと思うか?と真剣な表情で尋ねてきた一に、悟郎は大きくため息をついた。ここまで鈍いとある意味天然記念物モノだ。
「あのねぇ、ハジメ?」
「んあ?」
「ハジメはね、『お医者さまでも大津の湯でも治らない』っていうビョーキにかかっちゃったの」
「へ?医者に行っても治らねぇのか?!」
「そのビョーキの名前、ゴロちゃん知ってるんだ」
「なんだ、悟郎、知ってるのか?!早く言え!とっとと言え!」
そんなに悪い病気なのかと真っ青になって慌てふためく一に、悟郎は小悪魔的な笑みを浮かべてみせた。
「それはね・・・」
「それはっ?!」
「『恋』だよ
「・・・コイ?コイって魚のコイか?」
がくり、と悟郎は倒れそうになった。一の脳内ではどうして『コイ』が『鯉』に変換されてしまうのか、悟郎には理解できない。
「んも〜!違うってばー!『恋』だよ、『恋』!ハジメは好きなひとができたの。
 その人のことを見ると、胸がきゅう〜っとなっちゃって、ドキドキしちゃうの!」
「ふーん、なんだそうなのか・・って、ええっ?!」
「ホントに気づいてなかったんだね、ハジメってば。
 ゴロちゃん、そっちの方がポペラびっくりだよ」
呆れ顔で悟郎はそうつぶやいたが、一の耳には届いていなかった。悟郎の言葉があまりに衝撃的だったからである。
「恋・・・って、この俺が・・・?」
「間違いないと思うんだけどな〜、ゴロちゃんは」
そのとき、おまたせしましたという軽やかな声がして、アイスカフェオレのグラスがトンとテーブルの上に置かれた。
「う、うわぁ!?」
いきなり現れたに驚いた一がパッと立ち上がり、ガタンと大きな音を立ててイスが倒れてしまった。
「一くん?ごめんなさい、もしかして驚かせちゃった?」
身長差のせいでどうしても上目遣いになってしまうのだが、その上目遣いと小首をかしげた様子が可愛らしくてたまらない。
ヤベェ・・・可愛すぎるっ!ギュウってしたい・・・!
「一くん?」
「な、なんでもないんだ、さん。ちょっと驚いただけだからさ」
アハハとごまかしながら、一はイスを起こして座りなおした。
「そう?ごめんなさいね・・・」
「うん、ちゃんは全然悪くないよ。ハジメが鈍すぎるのが悪いんだもん〜」
「?」
「わー、わー!悟郎、黙れ!」
ふたりの会話の意味がよく見えずは小首をかしげたが、あまり邪魔をしても悪いと思ったのか、
「じゃ、ゆっくりしていってくださいね」
とにっこり笑って、カウンターへと戻っていった。
「ハァ・・・」
ハジメは大きなため息をついた。一方の悟郎はというと、冷たいアイスカフェオレをストローでちゅるると吸い上げていた。
「・・・悟郎」
「んー?」
「B6の奴らには絶対言うなよ」
「え〜?つまんなーい!」
「絶対言うなっ」
そう言った一は耳まで赤くなっていた。悟郎はそんな一の様子を見て、あまりからかってもいけないと思ったらしい。
「んー、わかった。ゴロちゃん、誰にも言わないよ」
「サンキュ、悟郎」
ちらりとの方へ目をやると、常連の老婦人とにこやかに話をしていた。

――すげぇいい顔で笑うって、最初に思ったんだった。

もちろん接客業なのだから愛想がいいということもあるのだろうが、の笑顔は思わずこちらも微笑み返したくなるような気持ちにさせるのだ。
モヤモヤした、なんと名前をつけていいのか迷っていた気持ちに名前がついて、その名前に戸惑う部分もまだあったけれど、なんとなく一はすっきりした顔になっていた。



もうすぐ暑い夏がやってくる。




【あとがき】
一くんっぽかったでしょうか?う〜ん、高校三年生で初恋って遅すぎ?(笑)
サッカー少年だった一くんはきっとモテたと思うんですけど、男友達と騒いでるほうが
楽しくて、女のコと付き合ったりはなさそうな気がするんですよねーと、勝手な
思い込みで書いております。
ちなみに『大津の湯』ではなく『草津の湯』でございます。ちゃんとツッコミ入れて
くれましたか?(笑)


最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 2008年8月14日