花衣 第2話
「ねぇ、友雅さま!あれは何ですの?」
牛車から外を覗き見していたがはしゃいだ声で聞いてくる。
が子供のようにワクワクしているのが見てとれる。友雅は口元に楽しげな笑みを浮かべながら答えた。
「そんなに身を乗り出したら、牛車から転がり落ちてしまうよ?」
「!」
も自分がはしゃぎすぎていたことがわかったのだろう、恥ずかしそうにコホンと小さく咳払いをして、姿勢を元に戻した。友雅はクスリと小さく笑みをもらした。
しばらくは大人しくしていただったが、やはり外が見たくて落ち着かないのだろう。どちらかといえば落ち着いた雰囲気の持ち主であるが、そんな風にソワソワしているのはめずらしく、友雅はそれを面白そうに見ていた。
「そろそろ桜の季節だね。花が咲いたら、神泉苑へでも出かけてみようか」
「わたしも?」
「ああ、もちろんだよ」
パァッとが輝くような笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、友雅さま!楽しみにしていますわ」
「ああ、約束だ」
友雅は手の中の扇を玩びながら、ゆったりと答えた。
いつもはあまり華美な衣装を身に着けないだが、今日は友雅が見立てた真新しい衣装を着ている。その様子は、まるでどこかの貴族の姫君のようだった。
「あの、友雅さま」
「なんだい?」
「左大臣さまの姫君とはどんな方ですの?それに『龍神の神子』様は・・・」
さっきとは打って変わって、心細そうな声だった。橘家も貴族の一員であるが、左大臣家とは比べるべくもなく。大貴族の姫君に対面するということで緊張しているのだろう。
それに加えて『龍神の神子』にも対面するのだ、が緊張するのも無理はなかった。『龍神の神子』というのが何者なのか、くわしく友雅は話してくれなかったけれど、友雅の口ぶりから尊い存在であるということは窺い知れた。
「可愛らしい御方たちだよ。歳はお前よりもずいぶん下だ」
「でも、どうしてわたしなどにお会いになりたいと・・・?」
「たまたま絵巻物をご覧になっているときに、お前が絵を見るのが好きだと申し上げたのだよ。
そうしたら、神子殿がお前に絵を見せてやりたいとおっしゃって下さってね」
「そうでしたの・・・」
このところ友雅が足繁く左大臣家へと通っているのは知っていた。そして、それは新しいお役目をいただいたからなのだとは聞いていた。
そう聞いていても・・・は心中穏やかではなかった。
――は友雅が好きだった。
幼い頃から共に暮らし、誰よりも身近な存在だった。兄のように慕う気持ちが、いつしか異性に対するものに変わるのに時間はかからなかった。
友雅の艶聞はも耳にしている。そして、新しい恋人が左大臣家にいるのではないかというウワサも・・・。
そして今日――左大臣家に招かれ、もしかしたら友雅の恋人に出会ってしまうのかもしれないと、は恐れていた。
「・・・?」
「・・・」
「どうした?気分でも悪いのかい?」
「あ、いいえ。少し緊張しているだけですわ」
無理に笑みを浮かべたを心配げに見た友雅だったが、牛車はすでに左大臣邸に到着していた。
「初めまして、と申します」
緊張で少し声が震えた。隣で友雅が軽く笑ったような気がして、は友雅をちょっと睨んだ。
「こんにちは!」
元気な声がしたかと思うと、几帳の間から女の子が顔をだしていた。が驚いた表情で見つめているのに気づいたのか、その女の子はちょっと首をかしげた。
「友雅さん、あたし、何かヘンな事言いました?」
「いや・・・」
友雅はクスクス笑いながら、あかねを紹介する。は慌てて頭を下げた。
「こちらは龍神の神子、元宮あかね殿だよ。それから奥にいるのが藤姫。左大臣家の姫君だ」
「初めまして・・・」
ドキドキしながらゆっくりと顔をあげと、そこに居たのは愛らしい女の子がふたり。
「こんにちは、さん。あたし、元宮あかねっていいます」
「初めまして、殿。藤と申します」
「さん!こっち、こっち!」
「は、はい?」
あかねに手をとられて部屋の奥へと進むと、そこには絵巻物がずらりと並べられていた。
「まぁ・・・」
有名な『竹取物語』から『源氏物語』から・・・が見たことのない絵巻物もたくさんある。
「なんて素晴らしい・・・」
「でも、あたし、読めないんですよね」
と、あかねが残念そうに呟いた。文字を読めなくても絵は楽しむことはできるが、せっかく物語になっているのだからきちんと読んでみたいと思う。あかねは絵巻物を手にとって、なんとか文字を読もうとしてみたが、どうにも難しい。
「『竹取物語』ならあらすじを知っているから、絵を見ればなんとなくわかるんですけど・・・」
「では、わたしが読んでさしあげましょう。そのあとでご一緒に文字の練習をいたしましょうか」
まだ幼さの残る可愛らしい神子殿に、はほほえましい気持ちになった。友雅から『この京を救うべく龍神から遣わされた尊き御方』と聞いて、会うまではとても緊張していたのだが、実際に会ってみると普通の可愛らしい少女だった。
この少女の双肩に京の未来がかかっているのかと思うと不憫な気持ちになる。
「神子様、どの物語にいたしましょうか・・・?」
がここにいられる時間はほんの一時でしかないが、少しでも神子の気分転換に役立てればいいとは思うのだった。
「うう〜、難しいよぉ〜」
慣れない筆を使って文字を書いていくが、の書いてくれた手本のようにはうまく書けない。
「神子様、そんなにあせらずにゆっくりとお書きになればよろしいのですよ」
絵巻物をいくつか読んでやり、そのあと、あかねと藤姫、は手習いを始めた。
とくにあかねには筆の持ち方から教えてやったのだが、普段使ったことのない筆で文字を書くのは、あかねには難しいらしかった。
しばらくは練習を続けていたのだが、文字の練習ばかりでは飽きてしまうだろうと、は絵を描くことを提案した。
「神子様、文字の練習はいったん休憩なさって、絵でもお描きになってはいかがですか?」
「そうですね・・・。あ、さんって、絵も描かれるんですよね?あたし、見てみたいです!」
「神子様にお目にかけるほどのものではありませんが・・・」
乞われるまま、は絵筆を手に取った。白い紙の上に、美しい花の絵を描いていく。
「うわぁ・・・綺麗!」
「ええ、本当に。素晴らしいですわ、殿」
「ありがとうございます」
少女ふたりは熱心にの筆先を見つめている。筆が動くたびに、美しい花が描かれていくのだ。さらり、さらりと筆を運んでいるのに、描かれるのは細密に描写された花・・・。あかねはもちろんのこと、藤姫も感心したような顔で見つめている。
花を一輪描きあげたは次は何を描こうかと思案して、柱にもたれてのんびりとくつろいでいる友雅に目を留めた。
クスリと小さく笑みをもらして、はこっそりと友雅を観察しながら筆を運んでいく。
そのうちにが何を描こうとしているか気づいたのだろう、あかねと藤姫もクスクス笑い始めた。
「おや、どうかしたのかな?なんだか楽しそうだけれど」
「いいえ、何でもありませんわ!友雅さまはそちらでお寛ぎになっていてくださいませ」
「そうですよ、友雅さん!今日は物忌みで出掛けられないんだから、のんびりしていてください!」
友雅が不思議そうな顔で見ていたけれど、たちは顔を見合わせてこっそりと笑っていた。
三人の楽しげな様子に――特にあかねの――友雅は、を連れてきて良かったと思った。
藤姫はしっかりしているとはいえ、まだ子供だ。あかねが甘えていくには幼すぎる。その点、は年長であるし、当然のことながらこちらの生活にも詳しい。
姉のようなに甘えることで、あかねの精神的な不安が少しでも減らせればいいと、友雅は思っていた。そして、最初の緊張が溶けて楽しげなを見て、連れてきてよかったとも思うのであった。このところ八葉としての役目に追われ、邸で過ごす時間が短くなっていた。が自分のことを心配しているのはわかっていたけれど、なかなか共に過ごす時間をとることができずにいたのだ。ふたりきりではないけれど、楽しげなを見ていると、自分の疲れも癒されていくような気がする友雅なのだった。
「今日はなんだかにぎやかですね」
「鷹通・・・?」
御簾をからげて入ってきたのは藤原鷹通だった。
「お邸にお伺いしたら、友雅殿はこちらだとお聞きしましたので。帝からの御文をお預かりして参りました」
「帝から・・・?」
帝からの文と聞いて一瞬緊張が走った友雅だった。それを感じ取ったのか、鷹通は友雅を安心させるかのように穏やかな笑みを浮かべた。
「御所で歌会を開かれるそうで、そのお誘いだと思います」
「そうか。ありがとう、鷹通」
文箱を預かり、帝からの手紙を読む。鷹通は、にぎやかそうな几帳の奥が気になるようだ。
「今日はどなたか見えられていらっしゃるのですか?」
「あ、鷹通さんだ!」
鷹通の声が聞こえたのか、几帳の奥からあかねが現れた。
「こんにちは、神子殿。なんだか今日は賑やかですね?」
「あ、そうなんです!今日はお客さまが・・・」
あかねがちょっと奥へ引っ込んだかと思うと、女性の手を取って戻ってきた。
「こちらは、友雅さんの乳兄妹のさん」
「・・・殿?」
「はい?」
呼ばれて思わず返事をしたの目の前にいたのは、メガネをかけた優しげな雰囲気の青年だった。自分を見て嬉しそうな表情をしたが、には見覚えのない公達だった。
「藤原鷹通と申します」
「・・・あ!」
思わずもれた声に口元を押さえたに、鷹通はにっこりと微笑んだ。
「貴女にお目にかかれるとは思っておりませんでした」
「本当に。申し遅れました、と申します」
美しい文字を書く女性だと思っていた。時折届く文を読みながら、こんな美しい文字を書く女性はどんな方なのだろうかと想像していた。
いま鷹通の前にいるは、鷹通よりもいくつか年嵩で落ち着いた雰囲気を身に纏っていた。たっぷりと豊かな黒髪はその背を覆い、美しい流れをつくっている。
想像に違わぬ美しいひと――鷹通のに対する第一印象だった。
あかねや藤姫が初対面だというのにあんなに懐いているのは、その人柄も素晴らしいのだろう。思いがけず訪れた僥倖に、鷹通は感謝したい気持ちになった。
「鷹道さん、これ見てください」
「ほう・・・これは美しいですね」
あかねが差し出したのはが描いた花の絵だった。女性らしい優しげな線で縁取られ、淡い色をのせられている。
「ね、綺麗でしょう!」
年頃の少女らしくはしゃいでいるあかねに、鷹通は微笑む。友雅がを連れてきた理由がなんとなくわかるような気がした鷹通だった。
それから、双六をしたり、貝合わせをしてみたりと、にぎやかで楽しい時間を過ごした。友雅はその輪に入らなかったけれど、穏やかな笑みを口元に浮かべて、のんびりと皆の様子を見ていた。
「、そろそろお暇しようか」
「あ、はい、友雅さま」
楽しい時間はあっという間に過ぎて、そろそろ陽が暮れてきたようだ。が腰を浮かせると、その手を両方から掴まれた。
「え・・・?」
「ダメですっ!まだ帰っちゃダメ!!」
「そうですわ!」
「おやおや・・・」
友雅はクスリと笑った。鷹通も笑いを堪えているようだ。ひとりがオロオロしている。
「あ、あの、神子様、藤姫様・・・」
の右手はあかねが、左手は藤姫がガッチリと掴んでいた。
「今日は泊まっていってくださいよ〜!」
「でも・・・」
「ね?いいでしょ、友雅さん?」
「・・・神子殿のおっしゃるとおりに」
途端に『きゃー!』と喜んだ声が聞こえた。
友雅は柱にもたれて、ぼんやりと月を眺めていた。
結局、あかねの望んだとおり、と友雅は左大臣邸に泊まることになった。はあかねたちと一緒に眠ってしまったのだろう、先ほどまで聞こえていた笑い声は途切れ、静まり返っていた。
鷹通は明日の朝が早いとかで、残念そうにしながら帰っていった。名残惜しそうにを見ていたような気がするのは、友雅の考えすぎだろうか。
カサ、と衣擦れの音がした。
「・・・友雅さま?」
「眠れないのか、?」
「なんとなく・・・目が覚めてしまって」
は友雅の隣に腰を降ろした。春の夜空に輝く月がとても美しかった。
「疲れなかったかい?」
「ええ、大丈夫です。今日は連れてきてくださって、ありがとうございました」
「ん?」
「最初は緊張していましたけれど、おふたりともとても可愛らしい御方で・・・。
恐れ多いことかもしれませんが、もしわたしに妹がいたら、あんな感じなのかしらと思いましたわ」
友雅はふふっと笑った。
「そうだろうね。お前ひとりにでも敵わないのに、三姉妹となったら、私などとても歯が立たないだろうね」
そう言って、ふたりでクスクスと笑った。にとって、友雅と過ごす時間はとても大切だった。
「」
「はい?」
「・・・鷹通をどう思った?」
「鷹通さま、ですか?」
なぜそんなことを聞くのだろうかといぶかしく思いながら、は答えた。
「とても・・・真面目そうな、お優しそうな御方だと思いましたが」
「鷹通は、お前に気がありそうだったよ」
「まさか、そんな・・・」
は驚きながらもちょっと笑って答えた。
「わたしとは身分が違いますわ」
「お前が望むのなら、橘家の養女になればいい。昔はそういう話もあったのだから・・・。
そうすれば、身分のことを気にする必要はないし、後見のことを気にすることもない」
「友雅さま・・・わたしは・・・」
「お前には幸せになってもらいたいと思っているのだよ。鷹通でなくとも、誰かお前を愛してくれる男の
妻となって幸せになってほしい」
「わたしは・・・今のままで充分幸せですわ」
は、自分の声が震えていないか自信がなかった。
自分の想う相手は友雅ただひとり・・・。
それなのに、その想いを告げることすらせぬ間に友雅に否定されてしまったような気がした。
いつか友雅はその身分にふさわしい北の方を迎えるだろう。それは決して自分ではない。かといって、友雅の恋人たちのひとりに名を連ねることもできないだった。愛しいひとを他の誰かと共有するなど、には考えられないことだ。さりとて、自分から友雅の傍を離れる決心もつかず・・・。
どこへも行くことのできない想いを抱えて、は苦しい日々を送っていた。
「?」
「・・・わたしがお傍近くお仕えするのはお嫌なのですか?」
「誰もそんなことを言っていないだろう。お前の気持ちを知りたかっただけだ」
「もしわたしが居なくなったら、誰が友雅さまを起こしてさしあげるんです?」
「・・・」
「友雅さまはそれはそれは寝起きがお悪いんですもの。他の女房では起こしてさしあげられませんわ」
今にも泣き出してしまいそうなのに、無理やり笑みを浮かべているの手に、友雅はそっと自分の手を重ねた。
「私はお前の幸せを望んでいるだけなのだよ」
「・・・わたしの幸せは、友雅さまのお傍にいることですわ」
「・・・」
恥ずかしそうに答えてうつむいてしまったに、友雅は愛おしげな、それでいて切なげな視線を落とした。
「さぁ、今夜はもう寝なさい。朝寝坊しては恥ずかしいだろう?」
「友雅さまと一緒にしないでくださいまし。わたしは朝寝坊なんてしませんわ」
は明るく言い返すと、与えられた部屋へと戻っていった。友雅は、月明かりに照らされたその後姿をじっと見つめていた。
に幸せになってほしいという気持ちに嘘はない。けれど、美しく怜悧なを手放し難く思っているのも事実・・・。
友雅は割り切れぬ想いを胸に、青く輝く月を見上げるのだった。
――友雅との様子を盗み見ている者が居た。
「おやおや、地の白虎ともあろう者が、あんな小娘に夢中だなんて」
シリンは、ふたりの姿を映す水鏡を覗き込んでいたが、ピシャッと指先でその水面を弾いた。
「ふふふ・・・あの娘、使えそうだねぇ・・・」
【あとがき】
もっと短いはずだったのですが、なぜかこんなに長く(^^;)
そして、最後にシリンさん登場・・・(汗)シリンにするかセフルにするか迷ったんですけどね。
どちらもキャラクターがよくわからないという点では一緒なので、今回はシリンにしてみました(笑)
なんだか当初考えていた展開とまったく違うのですが・・・(汗)
あと2話で終わるのかな・・・?
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2005年10月20日