SummerDays




はばたき学園数学教師氷室零一は、窓から差し込むオレンジ色の夕日にふと顔を上げた。
「もうこんな時間か」
夏の日は長い。とは言え、職員室に残っている同僚の姿はまばらになりつつある。今日行った氷室学級での小テストの採点も終わり、氷室は赤ペンを置いた。
今回の全問正解者はと葉月珪の二人だけだった。
前者は『氷室学級のエース』で、期末テストでは連続トップ記録を持ち、スポーツも万能で、そのうえ3年生になった今では吹奏楽部の部長も務めている。申し分なく『自慢の生徒』だ。ところが後者は・・・彼の頭痛のタネだった。
葉月珪――成績は決して悪くない。むしろ優秀と言ってもよいだろう。テストで居眠りしなければとトップを争う成績のはずだ。氷室は何度か彼に指導を試みたことがあったが、それらは無駄な努力に終わってしまっていた。
「珪くん、ちゃんと先生の言うこと聞かなきゃダメだよ。授業中に居眠りもしちゃダメ」
「・・・だって、眠い」
「珪くーん?」
「わかった・・・がそう言うなら」
「約束だよ!じゃ一緒に帰ろ♪」
氷室が二人の会話を聞いたのは偶然だった。
放課後の夕日の中に伸びる二人の影・・・氷室はなにか胸の奥にモヤモヤするものを感じた。その感情がなんなのか、名前をつけるのはためらわれた。
翌日から葉月はマジメに授業を受けるようになり、居眠りをすることもなくなった。それ以来、二人が一緒の姿をよく見かける。生徒のあいだでは『二人はつきあっているらしい』という噂が囁かれているようだ。
「・・・バカバカしい」
私がなぜ二人のことを気にしなければならないのだ。学年トップのとモデルの葉月。生徒達の注目を集めるのは当然だ。容姿にも優れたと『王子』のカップル・・・人目をひかないはずはない。
氷室は小さくため息をつくと、帰宅の準備を始めた。
ブリーフケースを持ち職員室を出ようとしたとき、ふと音楽室の鍵が戻ってきていないことに気づいた。下校時間はとっくに過ぎている。誰かが自主練習を行っているのかもしれない。熱心なのは結構だが、帰宅をうながさなければならない。
氷室は音楽室へ向かった。


「誰かいるのか?」
3階にある音楽室はオレンジ色の光で満たされていた。長くて真っ直ぐな黒髪が印象的な少女がひとり、大きく開かれた窓辺に腰掛けて夕日を見つめていた。
、まだ残っていたのか」
「・・・あ、先生?」
ぼんやりとしていたのか、彼女は氷室に声をかけられてようやくその存在に気づいたようだった。
「下校時間はとっくに過ぎているぞ。はやく帰宅しなさい」
「でも先生、雨が降りそうですよ。わたし、傘忘れちゃったんで雨宿りしてから帰ります」
「雨?予報では今日の降水確率は0%のはずだ」
夕暮れの空には雲ひとつなく、雨など降りそうにもなかった。氷室が怪訝そうな顔をしているのがわかったのだろう、少女はくすっと笑うと言葉をつないだ。
「だって雨の『匂い』がしますから。もうすぐ降りはじめますよ?」
少女の言葉を確かめようと、氷室も窓辺へ近づいた。少女は窓辺に腰掛け、手すりにもたれて外を見つめている。
彼女は何を見つめているのだろう?自分もそこに座れば少女と同じものを見ることができるかもしれない。
氷室は隣の窓を開け、そこに座ってみた。
「・・・何も匂わないが?」
「修行が足りませんよ、先生」
隣に腰掛けた氷室に驚きながらも、はクスクス笑った。こんなところに座っているのは危険だ、と注意されると思っていたのだ。
「ほんの少しですけど、水の匂いがしません?田舎の祖母が昔教えてくれたんです。
 小さい頃、私と弟が外で遊んでいると祖母が呼びにくるんです。
 『もうすぐ雨が降るよ。早く帰ろう』って・・・。子供心にそれがとても不思議で」
は昔を懐かしむように、遠い目をしていた。そういえば・・・先月彼女は『忌引』で数日欠席していなかったろうか?
氷室はそのことを確かめたい気もしたが、口に出すのはためらわれた。
「祖母は先月亡くなったんですけど。わたし、おばあちゃん子だったんで・・・」
「そうか・・・」
彼女の長い髪が風に揺れている。氷室はそれを見つめながら次の言葉を探していた。
彼女が深い哀しみにとらわれているのは伝わってきた。それを慰める言葉を持たない自分が情けなかった。
「わたし、祖母と文通してたんです。亡くなる一週間くらい前にも手紙をくれてて。
 浴衣も一緒に送ってくれたんです」
「浴衣?」
「はい。わたし、春頃に『好きなヒトができた』って手紙に書いたんです」
「・・・フム」
それと浴衣にどんな因果関係があるというのだ?いや、それよりも、彼女の想う相手とはいったい誰なのだ!?葉月珪なのか、それとも他の誰かなのか?いろんな考えが頭のなかをグルグルとまわる。
噂されている通り、氷室がアンドロイドなのだとしたら、その回路はとっくにショートしているだろう。
「おばあちゃんたら、その相手を花火大会に誘えって。もちろんその浴衣を着てですよ」
手紙の内容を思い出したのか、はおかしそうに笑った。
「『アンタがこの浴衣を着たら、男なんてみんなメロメロだよ』なぁんて手紙に書いてるんですよ。
 すごいおばあちゃんでしょ?」
「・・・ウム、確かに」
マジメに答えた氷室を見て、はまた笑った。
こんな風に自分に微笑みかける生徒は彼女以外にいない・・・と氷室は思った。彼を怖がって、近づいてこない生徒の方が圧倒的に多いのだ。最初の頃こそ怖がっているような雰囲気があったが、はいつも自然体で氷室に接してくる。
「だから先生、わたしと花火大会に行ってくれませんか?」
恥ずかしそうにほんの少しだけ逸らされた視線・・・彼女の頬が朱に染まってみえるのは夕陽のせいだけだろうか?そして、きっと自分の頬も朱に染まっているのだろう。
今は教室を茜色に染める夕陽に氷室は感謝したい気持ちだった。
「・・・」
「・・・やっぱり、ダメ、ですよね・・・」
氷室の沈黙を否定と受け取ったのか、は呟いた。
「い、いや、ダメというわけでは・・・あ、いやそうではない。
 そうではなくて、その日は校外指導の予定が入っている」
「・・・あ」
は自分の迂闊さを呪った。初めて自分から彼を誘ってみたのに・・・かなりの勇気を振り絞って。
氷室が生徒指導に熱心なのは自分が一番よく知っていることなのに。だけど、どうしても今年の花火大会に一緒に行きたかったのだ。
は3年生・・・あと何ヶ月かすれば卒業してしまう。卒業してしまえば氷室とのつながりは断たれてしまう。
だから勇気を振り絞って彼を誘ってみたのに、見事に作戦は失敗。
「そうですよね、先生はお仕事でしたね・・・。すみません、変なコト言っちゃって」
急にシュンとしてしまったを見て、氷室は慌てた。いつも元気なが自分の言葉に落ち込んでいるのを見て慌てる自分と、自分の言葉に一喜一憂するがかわいくて仕方がない自分がいる。
「・・・コホン、花火大会当日は午後6時に新はばたき駅を出発する予定だ。
 ぐ、偶然、会場で君に逢うかもしれないな」
「え?」
言葉につまりながら氷室は言った。今の自分に答えられるのはこれが精一杯だった。・・・残念ながらには伝わっていないようだけれど。
頭の回転は速いハズなのに、時々彼女は鈍いところがある。氷室はこめかみを揉みながら、なんと言うべきか考えた。
「・・・あ、そうですね。『偶然』逢えるかもしれませんね」
「そ、そういうことだ」
照れ隠しに咳払いをすると、がクスクス笑っていた。それを見て、氷室も表情を緩めた。
「なんだか暗くなってきません?」
「?」
視線を外にやると、確かに雲行きがあやしくなっている。先ほどまでの晴れた空が嘘のようだ。
「本当に雨が降りそうだな」
「ね、先生?わたしが言ったとおりでしょう」
「ああ、そうだな。どうやら私は修行が足りないらしい。今度『雨の匂い』の嗅ぎ方をレクチャーしてもらうことにしよう」
氷室がそんな軽口を言うとは思っていなかったのだろう、はちょっと驚いたような顔で氷室を見上げていた。
「もう遅いし、雨が降りそうだ。自宅まで送っていこう」
「ハイ!ありがとうございます!」
パァァッとの表情が明るくなる。
「問題ない。君の家は私の帰路にある」
ふたりで音楽室の戸締りをして、氷室はから音楽室の鍵を預かった。
「鍵はわたしが返しておく。君は帰る支度をして、駐車場で待っていなさい」
「ハイ!」
パタパタと廊下を駆け出したに注意をする。
「廊下は走るな」
「ハーイ!」
返事だけは良かったが、その歩調は緩まることはなく。
「・・・ったく」
その口調とは裏腹に、氷室の口元は楽しげな微笑を浮かべていた。


この胸に満ちる気持ち――それに名前をつけるのは、もうしばらく待つことにしよう。
季節がめぐり、ふたりの関係が変わるまでは・・・。




【あとがき】
ひさびさの氷室先生です。
9割書き上げていたのですが、仕上げることができずにお蔵入り(^^;)
ときメモGS2が出るって発表したから随分経ちません?
はやく発売して欲しいなー!

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 2005年9月2日