唯一の弱点
「おやまぁ、ヒノエ様!お帰りなさいませ」
ヒノエを出迎えてくれたのは、ニコニコと明るい笑顔を浮かべた恰幅の良い中年女性だった。彼女はヒノエが子供の頃からこの邸に仕えてくれている。
「ただいま。久しぶりだね」
「本当でございますよ。いつも突然居なくなってしまわれるのですから」
チラリと厳しい視線を投げかけられ、ヒノエは肩をすくめた。別当となった今でも彼女には頭が上がらない。
「は?どこかに出掛けているのかい?」
いつもなら、パタパタと元気の良い足音を立てて、誰よりも真っ先にヒノエを出迎えてくれる少女の姿がない。
「あら・・・様ならお部屋にいらっしゃると思いますよ」
「そうか。それなら、後で部屋に行ってみることにするよ」
久方ぶりに戻った自室は、主の不在などなかったかのように美しく整えられていた。ヒノエが留守にしているあいだも、きちんと掃除が行き届いているらしかった。
旅の汚れを冷たい水で洗い流し、外廊下に腰を下ろして庭を眺めると、そこかしこに夏の気配が感じられた。
ヒノエが帰ってきたことなどとっくに気づいているだろうに、いまだ姿を現さない少女にヒノエは苦笑いを浮かべる。このまま根競べをするのも悪くはないが、の機嫌を先に損ねてしまったのは自分の方だ。
ヒノエは小さく笑みをもらすと、京で購った蒔絵の櫛を懐に忍ばせ、少女の部屋へと向かった。
「?入るよ」
少女の部屋は庭を挟んで、ヒノエの部屋の向かいにあった。障子をあけると、こちらに背を向けて少女がぽつんと座っていた。
ご機嫌ななめって感じだね・・・。
年のころは十になるかならずといったところか。鮮やかな朱色の着物に、まっすぐに伸びたつややかな黒髪が美しい。
「ただいま、」
「・・・・・・」
「おかえり、とは言ってくれないのかい?」
傍らに膝をつき、の顔をヒョイと覗き込んでみると、ぷうっとその頬がふくらんでいた。その拗ねている様子も愛らしくて、ヒノエは思わず口元が緩む。
「ごめんよ、。お前があんまりよく眠っていたから、起こすのがかわいそうだったんだ」
先日、ヒノエはが眠っているあいだに旅立ったのだった。その直前に、と『黙って旅立たない』と約束していたにも関わらず。
「約束してたのに・・・」
「だから、ほら?お詫びに京のお土産だ」
ヒノエが懐から出した美しい蒔絵の櫛に一瞬目を輝かせただったが、すぐにプイと目をそらした。
「お前の黒髪に良く似合うぜ」
艶やかな黒髪にそっと櫛をさす。
「・・・おみやげなんかで許してあげないんだもん」
「ああ、オレが悪かったよ」
ようやく視線をあわせてくれた少女に、ヒノエは微笑んでみせた。
「しばらくはこっちに居るからさ」
「・・・しばらくって、どれくらい?」
「一週間くらいかな。二、三日は雑用を片付けなきゃならないけど、その後は
お前と一緒に過ごすと約束するよ」
「本当!?ヒノエおにいちゃま!」
「ああ、約束だ。お前の行きたいところに連れていってやるよ」
「約束よ!約束やぶったらイヤよ」
「ああ、わかっているよ」
嬉しそうにヒノエに抱きついてきた少女を受け止めると、ヒノエはその美しい黒髪を撫でた。
少女の名は――ヒノエを『おにいちゃま』と呼んで慕っているが、ヒノエの妹ではない。
少女の黒髪を梳きながら、あれからもう十年近くが過ぎたのかとヒノエは思った・・・。
その日、ヒノエは叔父である弁慶に無理やり連れ出され、山へ薬草を採りにきていた。
人好きのする笑みを絶やさない叔父が、ヒノエは少々苦手だった。
「ヒノエ、ひとりであまり先に行ってはいけませんよ」
手に持った枯れ枝で草を薙ぎ払いつつ、ヒノエは山奥へと進んでいく。本当なら今頃は近所の悪童どもと遊んでいるはずだったのにと、機嫌の悪さからか、ヒノエは弁慶の注意も聞かずにどんどん先へと進んでいった。
「あれ・・・?」
「どうしました、ヒノエ?」
弁慶が追いつくと、ヒノエはシッと指を口元に当てた。
ザワザワと木々が風に揺れる音がする。ヒノエはその音を耳を澄ませて聞く。
「・・・あっちだ」
「何かあるんですか?」
自分の聴覚を信じて、ヒノエは駆け出した。
「ヒノエ、待ちなさいっ!勝手に走っては・・・!」
この山は弁慶にとっても庭のようなものだが、身軽さと言う点では子供のヒノエに軍配が上がるようだ。ヒノエは山道を飛ぶように駆けていき、ある場所で足を止めた。
「・・・ヒノエ!どうしたんです、いきなり・・・」
弁慶がようやくヒノエに追いつくと、当のヒノエは茂みの奥を見つめていた。
「ヒノエ・・・?」
「あれ・・・」
弁慶も歩を進め、ヒノエの指差す先を覗き込んだ。
「赤ん坊・・・!?」
そこに居たのは粗末なおくるみにくるまれた生まれたばかりの赤子だった。
「泣き声が聞こえたような気がしたんだ」
「ああ・・・それで、急に駆け出したんですね、ヒノエは」
「うん」
弁慶は茂みをかきわけ、赤子を抱き上げた。
「良かった・・・まだ息はある」
弁慶はほっとため息をもらす。かなり衰弱しているようだが、命に別状はなさそうだ。ヒノエが赤子を覗き込んでくるので、弁慶は膝を折り、ヒノエが見やすい高さで赤子を抱く。
「それにしても、よく泣き声が聞こえましたね」
「・・・コイツがオレを呼んだんだ」
ヒノエは、柔らかそうな赤子の頬にそっと指先で触れてみた。それはぷにぷにと柔らかく、ちょっと強く触ったら壊れてしまいそうだ。
赤子特有の青みがかった黒い瞳がヒノエを見つめていた。ふにゃりと表情が崩れて、まるで笑っているかのように見えた。
「・・・!」
「笑っていますよ、ヒノエ。君のことが気に入ったのかもしれませんね」
「・・・なんでこんなところに赤ん坊がいるんだ?」
「それは・・・たぶん・・・捨てられたのでしょうね」
まったく人気のない山の中に赤子を捨てるとは・・・。
弁慶は眉をしかめた。どんな事情があったのかわからないが、子供を捨てるなど許しがたい行為だった。
しかも、この山の中だ。生まれたばかりの赤ん坊など一晩ももたないだろう。
「さて、どうしましょうか・・・。とりあえず、連れて帰るしかなさそうですが」
「つれてかえる!」
「ヒノエ?」
弁慶も驚くほどの剣幕で、ヒノエが叫んだ。
ヒノエと弁慶が連れ帰った赤子をどうするかで周囲の大人たちはかなりもめたのだが、ヒノエが赤子を手元に置くと言って頑として譲らなかったため、赤子はそのままヒノエと共に暮らすことになった。
――という名をつけたのはヒノエだった。
「ねぇ、弁慶おにいちゃまはいっしょじゃないの?」
「弁慶・・・?弁慶も勝浦に戻ってきてる。そのうちお前に逢いにくるだろうよ」
「ほんと?!早くあいたいっ!」
あまりにが嬉しそうにするので、ヒノエはなんだか気に入らない。
「なぁ、。弁慶はどうして『おにいちゃま』なんだ?
どっちかといえば『おじちゃん』だろ?」
はう〜と唸った。
「親父のことはおじちゃんて呼ぶのに、その弟の弁慶を『おにいちゃま』って
呼ぶのはおかしいだろう?」
「だって・・・」
はどう答えたものかと悩んでいるようで、言葉が続かない。
「ヒノエ・・・何をつまらないことにこだわっているんです?」
「チッ、もう来たのかよ・・・」
「弁慶おにいちゃまっ!」
はパッと立ち上がって弁慶の元に走りよると、ギュウと抱きついた。
「久しぶりですね、。いい子にしていましたか?」
「うん!いい子にしてたっ」
弁慶はを抱き上げ、目線を同じにする。
「そうですか。それでは、いい子でお留守番をしていたにはご褒美を
あげなければいけませんね」
片手での身体を抱いたまま、弁慶は懐から小さな包みをとりだした。
「なあに?」
「匂い袋です。よい香りがしますよ」
「ホントだ・・・!ありがとう、弁慶おにいちゃま!」
「どういたしまして」
嬉しそうに笑うにつられて、弁慶も微笑み返す。あの赤子がこんなに愛らしい少女に育つとは、と弁慶は思った。
それと同時に、を捨てた両親を許しがたく思う。ヒノエと共にを見つけたあと、弁慶は密かにの両親を探したのだ。しかし、両親の手がかりとなるようなものは何もなく、結局は無駄足に終わったのだが。
――数年前、が泣き腫らした目をしてヒノエと弁慶の元へやってきた。
「どうしたんだ、?誰かにいじめられたのか?」
ヒノエの問いに、少女はふるふると首を振った。
「それなら、どこか痛むのですか?」
弁慶の問いにも、少女は首を振った。
「・・・は捨て子なの?」
ヒノエと弁慶は思わず顔を見合わせた。
「だれかにそんなことを言われたのですか?」
はまた口をつぐむ。そんなの様子にヒノエはため息をついた。
「いいかい、。よく聞くんだ」
「・・・・・・」
「お前は捨て子なんかじゃない。熊野の神様からオレへの贈り物だよ」
「え・・・?」
ヒノエの意外な言葉に驚いているに、ヒノエは蕩けるような笑みを見せた。
「熊野の神様が、オレが幸せに生きていけるようにとお前をくださったんだ。
オレはお前が傍にいてくれて幸せだよ。それだけじゃ足りないかい?」
ん?と聞かれて、は思わず首を横に振っていた。
「そうですよ、。僕たちは君がいてくれて幸せですよ」
大好きなヒノエと弁慶が自分が傍にいて幸せだと言ってくれるのだ。幼いながらもには、それは最高に幸せなことのように思えた。
それ以来、はそのことについて一度も口にしない。
「ヒノエはしばらく忙しいのでしょう?ヒノエの手が空くまで、僕がと一緒にいますよ」
「仕方ないな・・・」
留守がちな自分を、は大人しくここ熊野で待っている。そして、久しぶりに帰ってきたというのに、一緒に過ごしてやることもできないのだ。弁慶に託すのはいささか不安があるのだが、自分と同じく弁慶がを大切に思っていることに変わりはない。
「、ヒノエのお仕事が終わるまで、僕と一緒に待っていましょうね」
「うん!」
二日後の夜、ヒノエは自分の部屋の外廊下から月を眺めていた。
京の都でも鎌倉でも同じように月を眺めたことがあったけれど、熊野で見る月が格別に思われるのはどうしてだろうか。
ヒノエは留守の間に溜まっていた熊野別当としての役目を無理やり一日で終わらせ、今日は丸一日とともに過ごした。
賑やかな市を冷やかしてみたり、泳ぐには早いので海辺で磯遊びをしてみたり・・・。
ははしゃぎすぎたのか、邸への帰り道で眠ってしまった。背に負ったがくたりと身を預けてくるのが愛しいと思った。
ヒノエの手をぎゅっと握り締めてくる小さな手――自分はその手を離す日がいつかくるのだろうか、とヒノエは思う。
ヒノエにとって、は娘であり、妹であり・・・。そして・・・その先は誰にもまだわからない。
ぺたぺたと小さな足音がしたかと思うと、廊下の端で止まった。それに気づいたヒノエは小さく笑い、そして言った。
「姫君はいつまで隠れているつもりだい?さ、出ておいで」
「・・・・・・」
現れたのは寝間着姿のだった。たたっと小さく駆け出したかと思うと、ヒノエにぎゅっと抱きついてきた。
「どうしたんだい?目が覚めてしまったのか」
「・・・ヒノエおにいちゃまが、またいなくなっちゃったのかと思ったの」
「・・・」
ヒノエは泣きそうになっているを抱きしめた。
「オレはここにいるだろ?」
「だって・・・」
「もう二度と約束を破ったりしない。お前に黙っていなくなったりしないよ」
「約束よ・・・」
「ああ」
ヒノエはを安心させるかのように、その小さな背を撫でてやる。しばらくすると、すぅすぅという穏やかな寝息が聞こえ始めた。
あまりにも無邪気なその様子に、ヒノエは穏やかな笑みを口元に浮かべていた。
――どれくらい時間が経った頃だろうか。
「ヒノエ、こちらにが・・・」
「シッ!が眠っているんだ」
母屋の方からやってきたのは弁慶だった。寝所にの姿が見えないので探していたらしい。
「やはり、ここでしたか」
幾分声を潜めてそう呟くと、弁慶はヒノエの隣に腰を下ろした。
「今日はずいぶん楽しかったようですね」
「ああ・・・。普段からもっとそばに居てやれたらいいんだけどね」
「そうですね・・・」
弁慶は、ヒノエの腕の中でぐっすりと眠るの乱れた髪を直してやった。
「それにしても・・・あと十年、いや、あと五年も経てば、どんなにか美しい娘になるでしょうね」
いまはまだ小さく固いつぼみだが、いずれ大輪の美しい花を咲かせるだろう。それは想像に難くない。
「・・・アンタにはやらないぜ」
むすっとした表情でヒノエがそう言うと、弁慶は小さく噴き出した。
「十年経ったら、自分が何歳だと思ってるんだ」
「君より、七つ八つ年上でしょうね」
しれっと答えた弁慶をヒノエが睨みつけると、弁慶はまた笑った。
「誰を選ぶかはの自由ですよ」
「・・・・・・」
憮然とした表情のヒノエを見て、弁慶は笑いをこらえるのに必死だった。
『大きくなったら、ヒノエおにいちゃまのお嫁さんになりたいの』
恥ずかしそうに頬を染めて、がこっそり教えてくれた将来の夢はまだヒノエには秘密にしておきましょうか・・・。
「幸せそうな寝顔ですね」
「ああ・・・。どんな楽しい夢を見ているんだろうな」
――オレの愛しい小さな姫君。
お前はどんな夢を見ているんだい?その夢の中にオレはいるかい?
夢の中でもお前のそばにいたいとオレは思っているよ・・・。
【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
これをヒノエ創作と呼んでもいいのでしょうか?(^^;)
弁慶さんにいいようにあしらわれているヒノエなのでした・・・。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年6月16日