光
んもう、あの課長、ムカつくわ・・・。
ガサゴソとバッグの中を探ってキーを取り出し、はマンションの玄関の鍵をあけた。
自分の勘違いで会議の資料を作り間違えたのに、そのことにはまったく触れず、部下であるたちに仕事を押しつけ、課長は自分だけとっとと帰ってしまったのである。明日は休みなので残業するのは構わなかったのだが、理由が理由なだけにやる気も起きず、余計に時間がかかってしまったのである。
夜とはいえ、じっとりと纏わりつくような熱気に疲れが倍増するような気がする。締め切ったままの自分の部屋も蒸し風呂のようになっているだろうが、窓を開けて空気を入れ替えて、冷房をつければ少しは気が晴れるかもしれない。
「あれ・・・?」
ふと気づくと、自分の部屋から明かりが漏れている。カチャリとドアノブを回してドアをあけようとしたのだが、それよりも先にドアがあいた。
「おかえりー」
「カカシ?!」
を出迎えたのは恋人のカカシだった。いつもの忍服姿ではなく、Tシャツにジーンズという夏らしいラフなスタイルで、なぜだかギャルソン風のエプロンをつけている。
「どうしたの?任務終わったの?」
カカシの任務の予定をはハッキリ聞いているわけではない。いや、聞かないようにしていると言ったほうがいいかもしれなかった。もちろん大まかには聞いているけれど、彼らの任務はきっちりその日に終わるとは限らないからだ。なにか突発的な事情で、予定していた日に帰れない場合もある。その状況を知ることができればいいが、一般人であるに知らせられない時もあるだろう。
恋人の帰りをヤキモキしながら待つのは嫌だった。知らないことで不安になることもあったけれど、今は割り切っている。そんな気持ちになれるまで時間はかかったけれど・・・。
今度の任務は長引きそうだとカカシが言ってたのは覚えていた。しばらく逢えなくて寂しいと思ったが、それを口に出すのは恥ずかしくて、カカシに言ったことはない。
「予定より任務が早く終わったんだ。で、ちゃん誘って
ゴハンでも食べに行こうと思って来たんだけど、まだ帰ってきてなかったから」
「ああ、今日は残業だったの。だから遅くなっちゃって」
「じゃ、ゴハンまだだよね?」
「うん」
カカシが手を差し出してくれたので、は肩にかけていたバッグを渡し、サンダルのストラップをはずした。
「それじゃ、ゴハンにする?お風呂にする?それともオレにする?」
にこにこと笑うカカシがおかしくて、は思わずぷっと吹き出した。
「オレのオススメは3番目なんだけど?」
カカシはちらりと色っぽい流し目をくれたのだが、それよりも鼻腔をくすぐる芳香におなかのほうが先に反応していた。
「この匂い、カレーだよね?あたし、おなかペコペコなの!」
カレー独特のスパイシーな香りが室内には満ちていて、それを無視するのは難しい。
「ちぇー、つまんないの。『オレ』を選んでくれたら、すっごくサービスする
つもりだったのになぁ」
「・・・カカシのサービスは怖いから遠慮しとく」
は苦笑いしながら答えた。
「辛っ!でも、おいし!」
「ホント?良かった〜」
カカシが作ってくれていたのは夏野菜のカレーだった。ピリッとスパイスがよく効いている。
はふはふしながら美味しそうにカレーを口に運ぶを見て、出来ばえが心配だったのだろう、緊張した面持ちだったカカシは相好を崩した。
「カカシって、お料理できたんだね」
カレーに添えられているサラダも美しく盛られている。さすがにドレッシングは市販のものだったけれど。
「外食ばかりじゃ飽きるしね」
「そっか。そうだよね」
「でも、自分のために料理するのは面倒でさ。めったにやらないんだけど」
こうやってのんびりとふたりで食卓を囲むのは久しぶりだった。カカシとは一緒に住んでいるわけではない。そのせいもあって、どうしてもすれ違いが多くなってしまうのだ。
「ごちそうさまでした」
カレーをおかわりしたは満腹で苦しいのか、おなかをさすっている。その様子を見て、カカシはくすっと小さく笑った。
「じゃ、片付けよっか」
「あ、後片付けはあたしがするよ!カカシはのんびりしてて」
「そう?じゃ、お言葉に甘えて」
後片付けはに任せて、カカシはキッチンの隣のリビングに行った。手近な雑誌をパラパラとめくってみたが、ふと思い立って、リビングからベランダへと出た。
今はもう止んでいるけれど、いつのまにか雨が降っていたらしい。
「ちょっと涼しくなったかな」
先ほどまでの熱気が嘘のように、ひやりと少し湿った冷たい風が頬をなでていく。
の住むこのマンションは小高い丘にあって、木の葉の里が一望できるのだ。結構な坂道を上がっていかなければならないというのに、眺望の良さを気に入ってがこのマンションを選んだことを思い出した。
さほど広くもないベランダだが、小さな木製のデッキチェアがふたつ置いてあって、そこに腰掛けてのんびりと里を眺めるのがのお気に入りだった。タオルでデッキチェアについた水滴を拭い、カカシは腰を下ろした。
黒い天鵞絨の上に宝石を散りばめたような夜景に目を奪われる。
あの明かりのひとつひとつに誰かがいて、大切なひとが帰ってくるのを待っているのかな・・・?
そんなことをふと思う。けれど、いつも待たせるのは自分のほうなのに、とカカシは苦笑を浮かべた。
いつもより帰りの遅いが心配で、こっそり忍犬に様子を見にいかせてしまった。たった1時間か2時間、の帰りが遅かっただけだというのに・・・。
もしかしたら帰ってこないかもしれない『オレ』を待つのはどんな気持ちなんだろう?
それをに尋ねるのは恐ろしくてできなかった。
自分がの手を離したならば、はそんな辛い思いをしなくても済む――それがわかっているのに、十分過ぎるほどわかっているのに、カカシはその手を離すことができないでいる。
なんとなく割り切れない気持ちになって、それをごまかすかのように滅多に吸わない煙草に手を伸ばし、紫煙をくゆらせた。闇の中ではその火は赤い蛍のように見える。
「どうしたの、こんなとこで?」
ガラッと音をたてて背後の窓が開いたかと思うと、後片付けが終わったのか、がベランダにやってきた。
「ん?ああ、ちょっと久しぶりに吸いたくなっちゃって」
そう言って、カカシは右手の煙草をあげて見せた。
「ふぅ〜ん」
は一瞬心配げな表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
「はい、アイスコーヒー」
「ありがと」
は自分もデッキチェアをタオルで拭いてから腰を下ろした。冷たい風が頬をなでていく。
「一雨きたんだね。全然気づかなかった」
「うん。ちょっと涼しくなったね」
ぼんやりと夜景を眺めているカカシの横顔を見つめたは、手を伸ばしてカカシの頭をなでた。
「なに、ちゃん?」
「ん〜?なんとなく、なでたくなっちゃったの」
はクスリと笑い、カカシの頭をくしゃくしゃとなでた。
「あー、癒される〜!」
「あのね・・・オレはわんこじゃないんですけど?」
「だって、ふわふわで気持ちいい〜んだもん!」
なんとなく自分の様子が沈んでいることには気づいていて、元気づけようとしてくれているのだろうとカカシは思った。忍という職業柄、感情を押し殺すことには慣れているはずなのに、の前ではそれがうまくできない。
「氷、溶けちゃうよ?」
はそんなことをおくびにも出さずに、アイスコーヒーに浮かべたバニラアイスをおいしそうに食べている。ちなみに、カカシのアイスコーヒーにはバニラアイスは浮かんでいない。
「デザートは別腹とはよく言ったもんだね」
カレーをおかわりして満腹だと言っていたのに、早々にアイスを口に運んでいるをクスリと笑う。
「うるさーい!いいもん、カカシにはアイスあげないもんね!」
アイス最後だったし、とはくちびるを尖らせながら言った。
「いいよ、オレはこっちからわけてもらうから」
カカシはニヤリと笑って、のほうへと身を乗り出した。
「カカシ?」
アイスを食べていたせいか、くちづけはひやりと冷たく、そして甘かった。
「ゴチソウサマv」
くちびるが離れる瞬間、ぺろりとの赤いくちびるを舐めた。
「〜〜っ?!」
赤い顔をしてがこちらを睨んでいたけれど、それすらも可愛いと思ってしまう自分は重症なのだろうか。
「カカシには金輪際アイスはあげないからっ!」
若干的外れとも言えなくないの言葉に、カカシは思わず吹き出した。
こうしてと他愛もない会話を繰り返しながら過ごしていると、昨日までの任務の日々がまるで嘘のように思える。
ドロリとした血の匂いと飛び交う怒号と悲鳴――こことは天と地ほどの差がある。
ふいに口を閉ざしたカカシを心配そうには見つめた。
「・・・任務明けで疲れちゃった?」
「う〜ん、そうかも」
カカシは苦笑を浮かべ、両手を伸ばしてを抱き上げて自分のひざの上に乗せた。
「うわぁ?!」
「もうちょっと可愛く『キャv』とか言えないの?」
カカシがククッと笑いながら言うと、はくちびるを尖らせた。
「どーせ、あたしは可愛くありませんよっ!ふんっ」
「ちゃんは世界一可愛いデス」
「なに、その棒読み?!」
の笑い声に、胸の奥のしこりが溶けていくような気がした。なんだか、ようやくこちら側に帰ってきたような心地がした。
ふっと柔らかな微笑みを浮かべたカカシを、はギュッと抱きしめた。
「ちゃん?」
「あたし、まだ言ってなかったよね」
「ん?」
「――おかえり、カカシ」
「ただいま、ちゃん・・・」
ふわりとカカシは微笑み、腕の中の柔らかな身体を強く抱きしめた。
キミはオレを照らす光・・・。
オレが迷わないように、闇に呑み込まれてしまわないように、いつもオレを照らしていて。
――キミのいるところだけがオレの帰る場所なのだから。
【あとがき】
お久しぶりのカカシ先生でございました。
『カカアスハヤタン’08』に投稿させていただいた創作です。
毎年「もう書けないよ〜!!」ってなってるんですが、なんとか今年も
ひねりだすことができました(笑)
相変わらずカカシ先生は好きなんですけどね・・・。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2008年10月