キスの温度




「ホラ、そこ。掛け算を間違っていますよ、
男性にしては華奢な、美しい指先がトントンとノートを叩いた。
「っ?!」
「せっかく数式はあっているのに、相変わらずケアレスミスが多いですね、君は」
図星だったのだろうか、高校生と思しき少女は口をへの字にして、消しゴムでぐいとノートをこすった。
ここはとある教会の一角、さまざまな事情で親元を離れて暮らす子供たちの生活スペースである。ここで暮らす子供たちの中で年長者であるは、狭いながらも個室を与えられ、テスト勉強をしているところだった。
「・・・いつ来たのよ?」
彼に対してはいつもぶっきらぼうな口調になってしまう――マンドロゴロンス神父に注意されるのだけれど、直すことができない。
「ここはぼくにとって実家のようなものですから、
 いつ来てもぼくの自由でしょう?」
「テスト期間中なのにいいんですか、衣笠センセイ?」
誰かが部屋に入ってきたことに気づかないほど、苦手な数学の問題に熱中していたとは思えない。はハァと深いため息をついた。
――相変わらずよくわからないひとだ、とは思う。
子供の頃から衣笠正次郎という人物を知っているが、記憶にあるかぎり彼の外見は変わらない。もう36歳になっているはずなのに、どう見ても20代にしか見えない。
「『衣笠センセイ』ではなくて『正次郎さん』と呼びなさいと何度も言っているのに」
「ふんっ!」
「おやおや・・・」
は聖帝学園の3年生だった。数学の担当はもちろん衣笠である。
幼い頃に不慮の事故で両親を失くしたは、この教会に引取られた。経済的なことも考え、近くの公立高校に進学しようとは決めていたのだが、いつのまにか聖帝学園へ入学することになっていたのだ。はもちろん反抗したのだが、衣笠の
『ぼくは君の後見人なんですから』
という言葉には何も言えなくなってしまった。どういう経緯でそうなったのかわからないのだが、衣笠はの法的な後見人に納まっていたのである。
「学校で『正次郎さん』って呼ばれてもいいんですか?」
不機嫌さを隠そうともしないの声音に、衣笠は苦笑した。学校ではクラスAの優等生で、先生方の受けもいい。他のT6がこんな彼女を見たら、きっと驚くに違いない。
「ふふっ、ぼくは別に構いませんよ?」
「・・・」
相手にしていられないとばかりに、これ見よがしには参考書を広げた。
「すみませんが、勉強の邪魔なので出て行ってもらえませんか?」
「はいはい、わかりましたよ」
長年の付き合いのせいか、衣笠は引き際を心得ていた。これ以上の機嫌を損ねたら、一ヶ月は口をきいてくれないだろう。
「では、勉強を頑張ってくださいね。期待していますよ?」
「っ!?」
思いっきり睨んでやろうと思っていたら、いつの間にか衣笠の姿は消えていて、はぱちぱちと瞬きをした。
「・・・勉強しよ」
若干疲れたような声でそうつぶやいて、は参考書のページを繰った。



「集中できないや・・・」
はシャープペンシルを置いて、英語のテキストをパタンと閉じた。明日は英語のテストがあるけれど、得意科目だからなんとかなるだろう。
は小さくあくびをした。まだ寝るような時間ではないけれど、学校から帰ったあと同じ教会に住む子供たちの世話をして、それから自分の勉強をしていたのである。テスト期間中なのでアルバイトは休みにしてもらっているけれど、の生活はなかなかハードなのだ。ちなみに、B6の七瀬瞬はバイト仲間だったりする。
マンドロゴロンス神父はアルバイトなどしなくてもと言ってくれるが、世話になってばかりいるわけにもいかないと、はコンビニでのアルバイトを続けていた。高校を卒業したら就職しようと考えているは、もちろん学業も手抜きをしていなかった。成績がよければ、いい就職先が見つかるかもしれないと思っているからだ。
ちょっとぐらいならいいか・・・。
はごろんとベッドに寝転がった。大の字になって、思い切り腕と足を伸ばし、ゆっくりと目を閉じた。
自分で思っていた以上に疲れていたのだろう。ぬるい疲労感が全身に溜まっていき、とろりとした睡魔が襲ってきた。



トントン。
控えめなノックのあとに、カチャリとドアが開いた。
、コーヒーが入りましたよ。すこし休憩してはどうですか?」
この部屋の主は勉強机に向かっているのかと思いきや、小さなベッドに大の字になって眠っていた。
「おやおや、そのままでは風邪をひいてしまいますね」
はベッドカバーの上に寝てしまっているので、布団をかけてやることはできない。衣笠は着ていたジャケットを脱いで、の上にかけてやった。
「もう少し可愛らしい格好で寝てくれてるといいんですけどね。
 まだまだ子ども・・・ということでしょうか」
乱れた前髪をそっと指先で整えてやる。いつもは大人びた顔しか見せないのに、寝顔はどことなく子どもっぽく見えて、衣笠はクスリと笑みをもらした。
「ふふっ、早く素敵な大人の女性になってくださいね?ぼくの紫の上」
なにか柔らかくて温かいものが額に一瞬触れて、そして離れていった。
「っ?!」
「おや、起こしてしまいました?」
ばね仕掛けの人形のように、はいきなり起き上がった。
「な、な、な・・・!?」
「『なにをしたのか?』と言いたいのですか?」
は真っ赤になって、口をパクパクさせている。どうやら驚きすぎて、言葉がでてこないらしい。
「なにって・・・そうですねえ、おやすみのキスといったところでしょうか」
小さいときもしてあげたでしょう、と衣笠は言った。は一瞬言葉に詰まったが、慌てて言った。
「む、紫の上ってなんなのよ!?」
本人は怒っているらしいが、真っ赤になっているは衣笠から見ると可愛らしく思えるらしい。衣笠はにっこりと微笑んだ。
「ふふっ、それは・・・『男のロマン』ですよ」
「はぁ!?」
「小さな女のコを自分好みの女性に育てる――男のロマンだと思いませんか?」
「!?」
「ぼくの予想とはずいぶん違う結果になりましたが・・・」
衣笠はとろりと蕩けそうな微笑を浮かべ、思わずはそれに見とれてしまった。
スッと細い指先が伸びてきたかと思うと、桜色に染まっている頬を撫でた。
「ふふっ、君はぼくを退屈させない貴重な存在ですよ」
「こ、このセクハラ教師ーっ!!出て行ってよ!」
はベッドから飛び起きると、衣笠の背中をぐいぐい押して、部屋から追い出そうとする。いくら外見が女性的であっても男性である衣笠には力ではかなわないのだが、衣笠は大人しく出て行くことに決めたようで、に押されるままに部屋の外へ出ていた。
「コーヒーが冷めてしまったかもしれませんね。
 淹れなおしておきますから、10分くらいしたら来てくださいね」
「誰が行くかっ!」
「うーん、もう少し言葉遣いをなんとかしないといけませんね」
「うるさーいっ!」
バタン!
衣笠を追い出し、部屋のドアを大きな音を立てて閉めると、はその場にずるずると座り込んだ。
「・・・なんなのよ、いったい・・・」
かすかに感触の残る額を押さえて、はつぶやいた。
『小さいときもしてあげたでしょう』
衣笠の言葉に、ふっと幼い頃の記憶が蘇る。
不慮の事故で両親を亡くしたは、夜になると怖い夢を見てしまい、眠ることができなかったのだ。
『では、ぼくがおまじないをしてあげますよ?』
『おまじない・・・?』
『そう、怖い夢を見ないおまじないですよ』
小さな額に優しいくちづけが降ってくる。
『ほら、これでもう大丈夫。ぼくは嘘をついたことがありましたか?』
『ううん・・・』
子どもの頃、は衣笠を天使だと思い込んでいた。教会のステンドグラスの天使によく似ていて、衣笠にキスをしてもらうと、怖い夢を見なかったからだ。
「なんで顔が赤くなってるのよ、あたしってば・・・」
額に感じたくちびるの熱さ――子どもの頃より熱く感じたのはの気のせいだろうか。


彼は天使?それとも・・・?




【あとがき】
よく考えてみたら、すんごい年の差カップルになってますね(笑)
そして、どーしてキヌさんを書いてるんでしょうね、わたし・・・?
というか、キヌさんっぽかったでしょうか(汗)

最後まで読んでいただいてありがとうございました。

2008年5月24日