恋の魔法




「おや?今日はもう店じまいなのですか?」
「あら!ニクス様」
店のドアに『CLOSED』のプレートをかけようとしていたに声をかけてきたのはニクスだった。
「店じまいにはまだ早い時間では?」
ニクスが時刻を確かめると、時計はまだ午後3時を少し過ぎたところだった。の店――ウォードンにある小さな紅茶専門店――の閉店時間にはまだ早すぎるはずだ。
「ええ、今日はお客様も少ないし、別の仕事をしようかと思って」
「・・・では、私は少し遅かったようですね」
残念そうにため息をつきながら、ニクスが言う。どことなく困った様子のニクスに、は首を傾げた。
「どうかなさいましたの?」
がそう最後まで言い終わる前に、遠くで女性達の黄色い声が聞こえてきた。
「申し訳ありませんが、しばらく匿っていただけませんか?」
事情が飲み込めたは黙って店のドアを開けた。


は、ニクスの前に湯気のたつ紅茶のカップを置いた。
「ありがとうございます。とても良い香りですね。
 やはりプロが淹れるのは違いますね」
「今度、オリジナルの紅茶を出そうかと思っているんです。
 良かったら、感想を聞かせてくださいな」
ニクスはの店の常連客であった。正確には『の店』ではなく、彼女の父親の店なのだが。彼は茶葉の買付けに世界中を旅しており、実際店を守っているのは娘のだった。
「香りは・・・非常に良いですね。
 味は、もう少し渋みのある方が私の好みですが」
「渋み・・・」
は熱心にメモを取っている。その様子を見て、ニクスはふっと笑みを浮かべた。
久しぶりにウォードンに出てきたのは良かったのだが、ニクスが今度の舞踏会の招待状を受け取ったことを耳にしたご婦人達に見つかってしまったのだ。『舞踏会のパートナーにしてほしい』と追いかけられて困っているところだった。
の店はとても落ち着いた雰囲気で、外の喧騒がウソのようだ。陽だまり邸のサロンで寛いでいるような、そんな気分にさせてくれる――それはこの柔らかく微笑む女性のせいなのかもしれないが。
この小さな紅茶専門店は、ウォードンでのニクスのお気に入りの場所だった。
「あなたはいつも仕事熱心ですね」
クスリと笑い声が聞こえて、はハッと我に返った。
「ご、ごめんなさい!つい夢中になってしまって」
恥ずかしそうにしているに、ニクスはにっこりと微笑んだ。
「いえ、仕事の邪魔をしているのは私の方です。
 どうか気になさらずに、仕事をしてくださいね」
ニクスの微笑みに、の頬が思わず赤くなった。先ほどからいつも通りの応対をしているのだが、実はの心臓はドキドキしっぱなしなのである。
ニクスは篤志家として、またオーブハンターとして名を知られ、人々の尊敬を集めている。そして、女性達の好意も・・・。普段は舞踏会の招待を断り続けているニクスが招待状を受け取ったということ聞き、パートナーになってほしいと追いかけられていたというのも頷ける。
先ほどから帳簿の数字を見ているが、全然頭に入ってこない。帳簿付けはもう諦めたほうが良さそうだ。は小さくため息をつくと、パタンと帳簿を閉じた。
「お茶のおかわりはいかがです、ニクス様?」
「ええ、ありがとうございます」
は今度はアールグレイを選んだ。ベルガモットのよい香りが漂う。
、あなたにひとつお願いがあるのですが?」
「わたしに?何でしょうか」
が新しいカップを置くと、ニクスはその香りを楽しむように深く吸い込んだ。
「ええ、実は今度の舞踏会にアンジェリークを連れていこうと思っているのです。
 彼女はよく頑張ってくれているので、そのご褒美といっては何なのですが」
アンジェリークもの店の常連である。あの可愛らしい少女はのお気に入りでもあった。
「ですが、アンジェリークは舞踏会に行ったことがなくて・・・。
 それで、あなたに付き添いをお願いできないかと」
「わたしが、ですか?」
幼い頃に母を亡くしたは、商売上の関係もあり、父のパートナーとして社交の場に出る機会も多かった。そういう理由もあって、ニクスがに付き添い役を頼んだことは納得できる。けれど、どうして自分なのだろうか。
「けれど、わたしよりも相応しい方が他にいらっしゃるのでは?」
暗に断りの意を匂わせてみたのだが、ニクスはこう答えた。
「ええ、もしかしたらそうかもしれません。
 ですが、アンジェリークはあなたを姉のように慕っているようですし、
 そんなあなたと一緒であれば、いっそう舞踏会を楽しめる。
 そうは思いませんか?」
ニクスににこやかに微笑みかけられると、にはもう断ることなどできなかった。




「こんなものかしらね・・・?」
紺色のシンプルなドレスを身にまとったは、自分の姿を鏡に映し、髪がきれいに結えていることを確かめた。
もともとあまり派手好きではないが持っているドレスはシンプルなものが多かったが、今日は付き添い役ということで、中でも地味めのドレスを選んでいた。あくまで主役はアンジェリークで、自分は単なる付添い役なのだから。
ニクス様のパートナーとして舞踏会へ行くのなら、きっと素敵でしょうね。でも、わたしではニクス様のパートナーにはふさわしくない・・・。
が小さくため息をついたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。ニクスが迎えに来る時間までにはまだ随分あるのだが。
「はい・・・?」
「こんにちは、
ドアを開けるとそこに居たのは、近くで仕立て屋を開いているソフィだった。彼女はの母親くらいの年齢で、子供の頃に母を亡くしているをいろいろと気遣ってくれる明るい女性だ。ソフィの作るドレスは繊細で美しく、ウォードンの女性の憧れの的だ。もちろんも例外ではない。
「こんにちは、ソフィさん。何かご用かしら?」
「まぁ、!あなたったら、そんな地味なドレスで舞踏会へ行くつもりだったの?!」
「え・・・?」
「さ、着替えましょうね」
ソフィの有無を言わせぬ微笑に、は思わず後ずさった。


「さあ、これで完璧♪よく似合ってるわ〜!」
「・・・・・・」
さすが商売人というべきか(もっともも商売人なのだが)、ソフィの押しの強さに何も訊ねることもできす、は新しいドレスに着替えさせられていた。それどころか、流行の髪形に髪も結いなおされ、化粧も直されたのだ。
「あ、あの、ソフィさん・・・?」
戸惑った様子のに初めて気づいたのか、ソフィはハッとした顔をした。
「あら〜、ごめんなさいねぇ〜?つい夢中になっちゃって」
「あのう、このドレスは・・・?」
が着せられたドレスは月の光を集めたように美しく、繊細なレースで飾られていた。女性なら誰もが一度は袖を通してみたいと思うだろう。
「そうそう!このドレスはね、ニクス様からの注文なのよ!」
仕上げが間に合って良かったわ、とソフィは満足げに微笑んだ。
「ニクス様が・・・?」
「そう。今夜の舞踏会にぜひあなたに着てほしいとおっしゃって」
「でも、わたし・・・」
ただの付き添いなのに、こんな美しいドレスを着てもよいのだろうか。の憂い顔を勘違いしたのか、ソフィは励ますように言った。
「大丈夫!どこから見たって、あなたは素敵な貴婦人よ。
 自信を持って、ニクス様と一緒に舞踏会へ行ってらっしゃい!」
バンと背中を叩かれたのだが、は戸惑うばかりだった。
竜巻のようなソフィが帰ってしまうと、は落ち着かずに室内をウロウロしていた。椅子に座るとドレスに皺ができてしまうかもしれないと、心配したせいもあったのだが。
しばらくすると、来訪者を告げるチャイムの音が聞こえた。今度こそニクスだった。
ドアをあけたを、ニクスはなにか眩しいものを見るような顔をした。
「ニクス様・・・?あの、どこかおかしいでしょうか・・・?」
シュンとしたような顔をしたに、ニクスにしては珍しく慌てたように答えた。
「これは失礼・・・どこの貴婦人かと見違えてしまったものですから」
よくお似合いですよ、とニクスに褒められ、は頬を染めた。
「あの、このドレスは・・・?」
「ささやかな私からの贈り物ですよ。あなたの貴重な時間を割いていただくのですから。
 さ、それでは舞踏会に参りましょうか」
「アンジェリークは外で待っていますの?」
「ああ、彼女なら先に舞踏会の会場に向かっていますよ。
 、お手をどうぞ」
はドキドキしながら、ニクスの差し出された手を取った。




アンジェリークが先に行って待っていると聞いた時点で気づくべきだったのだが、アンジェリークはヒュウガをパートナーに会場で待っていた。
さん!」
「アンジェリーク?」
「わぁ、とっても素敵です、さん!」
「ありがとう、アンジェリーク。あなたもドレスがよく似合っているわ」
淡いピンク色のドレスを着たアンジェリークは愛らしかった。嬉しそうに微笑む少女が可愛らしくて、も笑顔になる。
「皆さん、そろそろ中に入らないと遅刻してしまいますよ?」
「あ・・・ごめんなさい」
美しいドレスと華やかな雰囲気にはしゃいでいたのだろう、とアンジェリークは互いのドレスについてのおしゃべりに夢中になっていたのだ。
「ヒュウガ、アンジェリークをお願いしますよ」
「承知した」
恥ずかしそうに微笑んだアンジェリークは、ヒュウガの腕に手を添えて舞踏会の会場へと入っていった。
「え?あの、アンジェのパートナーはニクス様じゃ・・・?」
「では、私達も参りましょうか。
 マドモアゼル、お手をどうぞ」
は、心臓の鼓動がまた一拍早くなったような気がした。


「どうかしましたか・・・?」
舞踏会の会場は美しく着飾った紳士淑女たちが笑いさざめき、煌びやかな雰囲気を醸しだしている。はニクスにエスコートされるまま、ダンスフロアの中央にいた。
オーケストラの奏でる美しい曲にあわせて、ニクスはの手を取ってダンスをリードしていた。しかし、は気もそぞろな様子で、あたりをキョロキョロと見回したかと思うとうつむいてしまう。先ほどから、その繰り返しだった。
「ご、ごめんなさい・・・っ」
ハッと我に返ったのか、は慌てて答えた。そのためか、足のステップがおろそかになり、危うくニクスの足を踏んでしまいそうになり、再び慌てて謝るのだった。
、いつものあなたらしくありませんね・・・?」
ニクスの知るはいつも穏やかに微笑んでいて、その優しい笑顔はニクスの心を惹きつけてやまない・・・。だが、今夜のはどうにも落ち着きがない。それもはしゃいでいて落ち着かないのではなく、何か気になることがあって落ち着かないように見えた。
「そんなにもあなたの注意を引くモノに、私は嫉妬してしまいそうですよ」
「っ?!あ、あの、わたし・・・」
つれない恋人に囁きかけるかのように、ニクスはの耳元でつぶやく。驚いて顔を上げただったのだが、間近でニクスに見つめられると、また恥ずかしそうに俯いてしまった。
ほんの一瞬のことだったけれど、ニクスはの視線の先にあるものに気がついた。
「・・・外野が気になっているのですか?」
「・・・・・・」
答えがないのが答えだった。
の視線の先にいたのは、美しく着飾った貴婦人たちだった。ダンスの輪に入るでもなく、こちらをチラチラと見ながらヒソヒソ話を続けている。
ニクスがとダンスを踊るときにも、実は彼女達とひと悶着あったのだ。突如現れたがニクスのパートナーだということが気に入らなかったらしい。
「さ、顔を上げてください」
「ニクス様・・・」
それでもまだ躊躇している様子のに、ニクスは気づかれぬように小さくため息をついた。
店を訪ねると恥ずかしそうに優しく微笑んでくれるとほんの少しでも近づきたくて、アンジェリークの名前まで使って舞踏会に誘ってみたのだけれど・・・。
「――私だけを見てください、
「っ!?」
ニクスはほんの少し腕に力をいれて、を抱き寄せた。
「どうかこのひととき、あなたを独り占めさせてください」
ニクスの熱っぽい光を湛えた蒼い瞳から、はもう視線をそらすことはできなかった。


ふわふわと足が地についていない気がした。着飾った紳士淑女たちもどこか遠い存在に感じられ、この世界にはニクスと自分しかいないようにさえ思える。
「疲れさせてしまいましたか、?」
「いいえ、大丈夫ですわ、ニクス様」
ふたりは何曲かダンスを踊り、はニクスに促されるまま外のテラスへと出た。ほてった頬に冷たい夜風が心地よかった。辺りに人影はなく、微かに室内の音楽が聞こえてくる。
「なんだか夢を見ているような気がして」
「あなたに喜んでいただけたなら幸いです。
 少々ずるい手を使ってまで、あなたをお誘いした甲斐がありました」
どこかぼうっとした様子のに、ニクスは小さく笑いながら白状した。
「え?」
「アンジェリークのパートナーは元々ヒュウガに頼んでいたのです。
 それなのに、あなたを舞踏会にお誘いするのにアンジェリークの名前を
 出したのは、そうすれば優しいあなたは私の申し出を受けてくださると
 思ったからです」
「それは」
「私があなたに素直にパートナーになって欲しいとお願いしていたら、あなたは
 受けてくださっていましたか?」
は困ったように首を横に振った。
ニクスのエスコートで舞踏会にでる――女性なら誰でも憧れるだろう。無論も例外ではない。
けれど、自分がニクスのパートナーに相応しいかといわれると、はまったく自信がなかった。自分からパートナーにして欲しいとニクスを追いかけていくような華やかで美しい女性達には気後れがしてしまう。
、今宵は月が美しいですよ」
「本当に・・・」
見上げた空には美しい月が浮かんでいた。柔らかな月明かりに照らされたの横顔は美しく、ニクスの心にあたたかなものが満ちていく。
自分は何かを望む資格などないというのに・・・。けれど、一度知ってしまった甘美なひとときを手離す気持ちにはならない。
「まるでシンデレラになったような気がしますわ」
月を見上げていたが、くすっと笑いながら言った。
「こんな素敵なドレスを着せてもらって、舞踏会に招待していただいて・・・」
「では、私は『魔法使い』ですか?」
「そうですわね。ニクス様は、わたしに素敵な魔法をかけてくださいましたもの」
「・・・どちらかといえば、『魔法使い』より『王子』のほうがいいのですが?」
ようやく緊張が解けた様子のに、ニクスも楽しげな口調で返す。
「では、王子様とのダンスが終わりましたし、わたしはガラスの靴を残して、
 家に帰らなければなりませんわね?」
「おや、私なら十二時で解けてしまうような魔法はかけませんよ」
「永遠に解けない?そんな魔法があるなら素敵ですね」
はくすくす笑いながら訊ねた。
「ええ、あなたが望んでくださるのなら・・・。
 私はあなたに解けない魔法をかけてあげましょう」
「解けない魔法・・・?」
小首をかしげたに、ニクスは優しく微笑んだ。ようやく落ち着き始めたの鼓動がまた早くなった。
「ええ」

――『恋』という名の解けない魔法を。

「私はもうあなたに魔法をかけられていますよ」
ニクスはの耳元で囁くと、その白い手の甲にくちづけを落とした。




【あとがき】
 ネオロマ企画投稿作品。
 ハ、ハーレクイン・・・?(汗)
 この企画でかなりいろんなキャラにチャレンジしてきましたが、
 その中でも1、2を争う無謀さでした(笑)
 もう二度とサイトに登場しなさそうな気がします。。。

 最後まで読んでいただいてありがとうございました。
  2007年9月23日