甘い声
「ふう・・・どうにか間に合いそうだな」
鳳はジャケットの袖をめくって、腕時計の時間を確かめた。信号が青に変わるのが待ち遠しい気がしていたが、これなら急がなくても約束の時間に間に合いそうだ。
恋人であるとの待ち合わせ場所はこの信号を渡った、もう少し先のところだった。駅が近いせいか人通りも多く、鳳と同じく信号待ちをしている人間も多い。
「・・・でしょ」
「え?そうだったっけ?」
どこか聞き覚えのある声がしたような気がして、鳳は顔を上げた。
鳳の2メートルほど前で信号待ちをしている白いワンピースの女性――隣にいる男性に話しかけているのか、横顔がチラリと見えた。
あれは・・・。
彼女は、鳳の昔の恋人だった。
――彼女と付き合っていたのは、まだ学生の頃だった。
若すぎた、と言えばよいのだろうか。好きで付き合い始めたはずだったのに、最後は傷つけ合って喧嘩別れしてしまった。
あの頃は、どうして彼女が自分を理解してくれないのかと、ずいぶん腹立たしく思ったものだった。今なら、それが独りよがりだったとわかるけれど。
それはたぶん彼女も同じだったのだろう。相手を好きだという気持ちばかりが先走って、相手にそれを受け入れて欲しくて・・・。
今なら違ったふたりになっていたのかもしれない、と鳳は思った。
あれからいくつか恋もしたし、いくらかは成長したのだろうと思う。時々は余裕のないときもあるけれど。
信号が青に変わった。
「そうよ。今日までって言ったじゃない」
「わかった、わかった。じゃ、今日行こうか」
彼女と、彼女の現在の恋人は、楽しげに笑いながら横断歩道を渡っていった。
幸せそうで良かった・・・。
そう思える自分はいま幸せなのだろうなと、鳳は口元を緩めた。
「・・・なにニヤついてるんですか?」
「ご挨拶だね」
隣にが立っていた。軽く息が弾んでいるのは走ってきたせいだろうか。
「向こうの通りを歩いてたら、トリさんが居るのが見えたの」
「・・・トリさん、ねぇ」
「あ、信号!」
に腕をとられ、点滅し始めた信号にせかされるように横断歩道を渡った。
「あ・・・そういえば、今日どこへ行くか決めてなかったですね」
じゃ急いで渡らなくてもよかったんだ、とはちょっと恥ずかしそうに笑った。
「ああ、今日はドライブに行くつもりだったんだが・・・」
朝起きてみると、愛車のキーがなくなっていたのだ。もちろん、あの居候の姿も。
鳳の渋い顔を見て、には事情が飲み込めたらしい。クスリと笑う。
「葛城先生ですか?」
「・・・帰ってきたら、とっちめてやらないとね」
「わたし、葛城先生にも一度会ってみたいな」
「それは駄目」
「えー?どうして?トリさんの同居人なんでしょ?」
「その言い方はやめてくれたまえ。私が同居に同意しているように思われてしまう。
彼は『居候』だよ」
ふふっと笑うに、鳳は渋い顔をしてみせた。葛城にを会わせるなんてとんでもない。
「それよりも、今日はどこへ行こうか?」
「えーと・・・確か、今日は花園神社で植木市をやってるって聞いたんです。
ちょっと覗いてみませんか?」
「植木市か・・・いいね」
「あ!トリさんはもう植木っていうか、盆栽買っちゃダメですからね」
「・・・」
は鳳のマンションに遊びにきたことがあった。その時に、ベランダに並んだコレクションを見られてしまったのだ。
「だって、もうスペースないでしょう?だから」
「だから?」
「代わりに、わたしの部屋に置けそうな観葉植物を選んでください」
「わかったよ。とびきりのを選んであげるよ」
「あ!育てやすいのにしてくださいね。枯らしちゃったら哀しいから」
「了解」
隣で笑うの姿が、昔の恋人の姿と重なった。
――ふいに胸が締めつけられるような気がした。
「トリさん?」
心配げな顔でが自分を見つめていた。鳳はを安心させるかのように、口元に笑みを浮かべた。
「すまない。少しぼんやりしていたようだ。
あの居候をどうやってとっちめてやろうか考えていたんだ」
「あんまり苛めないであげてください」
「――彼が居なければ、私の部屋でキミとゆっくり過ごすことができるのに?」
「っ!?」
カッとの頬が赤くなった。
は両親と同居していて、鳳は恋人を抱き締めたまま朝を迎えるという恩恵に与ったことはなかった。を遅くまで引き止めて、彼女の両親の心象を悪くしたくはなかったからだ。
いまはまだ、将来どうなるかなんてわからない。けれど、自分の未来に、の未来が重なっていればいいと思う。
「トリさんのいじわる。わたしが赤くなるのを面白がって、
そんなこと言うんでしょ」
どうやら自分はの気分を損ねてしまったようだ。くちびるを尖らせて、が自分を睨んでいる。けれど、頬は桜色に染まっていて、まったく迫力はない。それどころか、柔らかそうなその頬にキスを落としたくなる。鳳はふふっと笑った。
「いじわるなのはキミの方じゃないのかな?」
「え?わたし・・・?」
きょとんとして首をかしげたに、鳳は甘い微笑を浮かべてみせた。
「私はキミを下の名前で呼んでいるのに、
いつになったら私のことを下の名前で呼んでくれるのかな?」
「う・・・そ、それは」
「この前までは『鳳さん』だったのに、偶然九影くんに会ってからは
『トリさん』と呼ぶようになってしまったし?」
先日、偶然ふたりでデートしているときに九影と出会ったのだ。鳳に同僚だと紹介され、最初はその風体に驚いただったが、話してみると気のいい男だということがよくわかった。
「トリさんよぉ、みずくせぇじゃねぇか。こんな可愛い彼女を隠してるなんてよ」
九影はそう言って、ふたりを大いに冷やかしたのだった。
そのときの九影の『トリさん』という呼び方をなぜかは気に入ってしまったらしく、それ以来は鳳を『トリさん』と呼ぶようになったのだ。
「それとも、恋人に下の名前で呼んでほしいと思うのは大それた願いなのかな?」
「・・・」
諭されるように言われると、どうにも反論できなくなってしまう。その辺はやっぱり先生だからなのかな、とはなんとなく思う。
口ごもっているの耳元に、鳳は口元を寄せて囁く。
「――ベッドの中では『晃司』と呼んでくれたのにね」
「なっ!?」
「ん?」
「ト、トリさんなんて、もう知らない・・・っ!」
頭から湯気が出そうなほど真っ赤になったは恥ずかしくていたたまれなくなったのか、駆け出して逃げ出そうとする。
しかし、鳳は慌てた様子もなく、クスリと小さく笑って、の手を簡単に捕らえてしまう。
「もう諦めなさい。キミは私に捕まってしまったのだから」
――捕まってしまったのは私のほうだとキミは知っているかい?
【あとがき】
と、友雅さん(現代版)・・・?
なーんて思ったのはヒミツです(笑)T6では一番好きなのは鳳先生ですねv
ま、要するに和彦さんがスキってことです(笑)
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年10月21日