横恋慕
『貴女はいま、幸せですか?』
もし私がそう訊ねたのなら、きっと貴女は微笑みながら頷くのだろう。
「申し訳ございません、鷹通様。友雅様はまだお戻りになっていないのです」
「いえ、今日は殿にお渡ししたい物がありまして」
御簾越しに涼やかな声が聞こえる。
少し前まではこのように二人を隔てるものなどなかったのにと、鷹通は寂しい気持ちになっていた。人妻となった女人は夫以外の男性の前に顔を晒さないものだからだ。
ここは橘邸――訪ねてきた鷹通の応対をしているのは、友雅の妻のである。
の母は宮家の姫君だったのだが、学者だった父と恋に落ち、半ば駆け落ちのような形で結婚したのだそうだ。無論、母の実家からは勘当されたような状態で、学問一筋の父には世間を生き抜いていくような才覚はなく・・・。は宮家の血をひく姫君として生まれながらも、生活を支えるためその才覚を生かして女房として左大臣家へやってきたのだ。最初は藤姫付きの女房として、そして藤壺中宮付きの女房となったのである。
そんなと鷹通が知り合ったのは、藤姫が手紙の代筆をに頼んだところから始まる。代筆された文の文字があまりに美しく、どのような女人が書いたのかと鷹通は興味を持ったのだ。
実際逢って話してみると、は教養高く、だがそれをひけらかすようなことのない、落ち着いた穏やかな性質の女人だった。
「殿がお読みになりたいとおっしゃっていた書物が偶然手に入りましたので」
御簾の下から古びた書物を差し出すと、白い手が伸びてきてそれを受け取った。鷹通が持ってきたのは非常に古い歌集である。
「まぁ・・・!ありがとうございます!」
の嬉しそうな弾んだ声を聴いて、鷹通は満足げな笑みを浮かべた。
「そんな風に喜んでいただければ、お持ちした甲斐がありました」
「父に頼んでずっと探してもらっていたのですけれど、見つからなくて。
もう諦めかけていたのです」
カサリと音がして、が書物を繰っているのだとわかる。よほど読みたかったのだろうと思われた。
どういう経緯で、このように学問好きなと華やかな友雅が結婚することになったのか、鷹通は知らない。だが、気づいてみれば、数々の浮名を流していた友雅が人が変わったようにひとりを愛し、ふとした瞬間に見せる表情が柔らかくなっていた。友雅がどれだけを愛しているかは、妻を他に持たず、を正式な北の方として遇していることからもよくわかる。
「・・・おや、珍しい客人が来ているね」
「友雅様、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま」
内裏から帰ってきたのだろう、友雅が姿を現した。
「お邪魔しております、友雅殿」
「なんだか久しぶりだね、鷹通?」
「は・・・ご無沙汰しておりました」
友雅はするりと御簾の内に身を滑り込ませ、が手にしていた書物に目を留めた。
「その歌集は・・・?」
「鷹通様が探して持ってきてくださったのですわ。
わたくし、本当に嬉しくて。友雅様からもお礼を言ってくださいませ」
御簾越しにも伺える仲睦まじいふたりの様子に、鷹通は胸が苦しくなる。人妻となったと、鷹通が直接顔を合わせることはもうない。あの優しい微笑は友雅ひとりのものなのだと思うと、胸がジリジリと焼け焦げるような気がした。
鷹通が持ってきた歌集について三人はしばらく話をしていたが、話が途切れた頃合を見計らって、鷹通は腰を上げた。
「それでは、私はそろそろ失礼いたします。
明日も公務がありますゆえ」
「あら・・・もっとゆっくりなさってくださればよろしいのに」
残念そうにが言う。学問に熱心な鷹通と語り合うのは、にとっては非常に興味深い時間なのである。いろいろと自分を気遣ってくれる、この真面目で優しい友人をは大切に思っていた。
「我侭を言うものではないよ、。
鷹通とて忙しい身なのだから」
「そうですわね・・・。
では、またお時間のあるときにいらしてくださいね」
「ええ、ぜひ」
名残惜しそうなの声に、鷹通は心乱されるのを感じたが、なんとか表情に出さずに済ませることができた。
「では、私がそこまで送ってこよう。参ろうか、鷹通」
「はい、友雅殿」
建物の外に出ると、夕暮れの風が頬に心地よかった。
「・・・・・・」
「どうかなさいましたか、友雅殿?」
「いや・・・もしかしたら、私と君の立場が逆だったかもしれないと思ってね」
「?」
怪訝そうな鷹通に、友雅はほんの少し苦笑を浮かべた。
「君のほうが先にと知り合っただろう?
だから、もしかしたら、君のほうがを妻にしていたかもしれないと思ったのだよ」
「・・・・・・」
そのような戯言を、と言うべきだったかもしれない。だが、咄嗟に鷹通は言葉が出てこなかった。
ほんの少しの運命の悪戯――だったのかもしれない。は友雅の妻となり、自分は独り身のままだ。
「君は真面目で仕事熱心だし、将来有望な公達だ。
女人に対しても誠実で、悲しませるようなことなどないだろう。
私のような男の妻となるより、鷹通の妻となったほうがは幸せだったかもれない、とね」
「・・・馬鹿なことを。殿のお耳に入ったら、きっとお怒りになりますよ」
「ふふっ、そうだろうね。腹を立てて、二度と口をきいてくれなくなるかもしれない」
肩をすくめてみせた友雅に、鷹通は思わず小さく笑ってしまっていた。だが、その笑いは友雅の低い声音によって打ち消された。
「――けれど、私は彼女を君に渡す気はないよ」
「友雅殿・・・っ!」
友雅は苦笑を浮かべ、硬い表情の鷹通を見つめた。
隠しおおせていたと思っていた自分の感情を、友雅には見透かされていたというのか・・・?
「すまない、失言だったようだ。どうか忘れてほしい。
つまらない男の嫉妬だよ」
嫉妬・・・?友雅殿が私に・・・?
言葉の意味がわからないといった顔をしている鷹通に、友雅はクスリと笑って答えた。
「私はもう若くはないからね。若い君にはいろいろな可能性があるだろうが、
私ではもう先が見えてしまっているからね」
「そのようなこと・・・」
「だが、彼女だけが私の『情熱』をかきたててくれる・・・。
そんな彼女を手離せるはずもないだろう・・・?」
そして、を幸せにできるのは友雅だけ、不幸にするのも友雅だけ・・・。
自分はそういった方面には疎いが、そのことだけはなぜかわかってしまっていた。そして、それがわかってしまったからこそ、自分は友人という立場に甘んじているのだ。
「・・・ですが、あなたが殿を悲しませるようなことがあれば、
私は遠慮しませんから」
真剣な鷹通の様子に、友雅はからかうようなことはせず、真面目な面持ちで答えた。
「ああ、肝に銘じておこう」
対峙したふたりの間を風が吹きぬけ、友雅はふっと笑みを浮かべた。
「君の隠された情熱を引きだせるような女人に出逢えるように祈っているよ。
――私のためにもね」
友雅のその言葉に、鷹通は苦笑を浮かべるしかなかった。
恋とは、このように苦いものだったのだろうか・・・?
この胸の苦しさはいつか消えるものなのだろうか・・・?
【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
『横恋慕』というお題消化のために書いたようなお話。。。
鷹通さんファンの皆様、ゴメンなさい!(汗)
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年6月16日