盗まれた心
「ふぅ・・・いつの間にか、こんなに文が溜まっていたなんて」
藤壺中宮に仕えている女房のは、目の前の色とりどりの文の山を見てため息をついた。思い切って処分してしまおうと思い、昔の文なども引っ張り出してきたのだが、それぞれに思い出があり、なかなか決心がつかない。
不意に人の視線を感じたような気がして振り返ると、そこには静かに友雅が佇んでいた。
「あら、友雅様。いらしていたなら、お声をかけてくださればよろしいのに」
「美しいひとが昔の恋を偲んでいるのか、熱心に文を読んでいる姿に見とれてしまってね」
そう言って艶やかな笑みを口元に浮かべた友雅だったのだけれど、は何か違和感を感じた。しかし、それは一瞬のことで、こうしてゆったりと話す友雅はいつもの友雅だ。
は一瞬首をかしげたけれど、友雅に座を勧めた。
左大臣家の姫君である藤壺中宮のもとに、時折友雅はご機嫌伺いにきていた。近衛府の武官であり、帝にも重用され、見目麗しい友雅が藤壺にやってくると、女房達がいっせいに色めき立つ。今にも黄色い悲鳴をあげそうな女房たちに、友雅は艶やかに微笑んでみせる。
朋輩達が騒いでいるのを尻目に落ち着いたそぶりでいるに、友雅は返って興味を抱いたらしく、何かというとに声をかけてくるのだ。
藤壺中宮の元には才長けた女房達が揃えられており、中でもはその美しさと聡明さで群を抜いていた。だが、色恋沙汰に現を抜かすということもなく熱心にお仕えしているので、返って中宮の方が「もっと内裏の暮らしを楽しみなさい」とたしなめるほどであった。
そんなに想いを寄せる公達も多く、たくさんの文が送られてくる。返事を書いたあと、ざっと仕分けをしておいたのだが、めずらしく手が空いたので文の整理を始めたのだった。
「中宮様の宿下がりに同行しなかったのは、私との逢瀬のためかと思ったのだけれど」
「逢瀬だなんて・・・」
クスクスとは笑った。時々は色めいたことも言うけれど、友雅との会話はとても楽しいとは思っていた。姫君や女房たちはその見目の麗しさに目を奪われているようだが、帝に重用されているだけのことはあり、頭の回転も速く趣味もよい。
「けれど、どうして中宮様と一緒に宿下がりをしなかったのだい?
それか・・・もしかして、私の知らない秘密の恋人でもいるのかな?」
チラリとの傍らに散らばっている色とりどりの文――おそらくは恋文――に視線をやりながら、友雅はの近くに腰を下ろした。
「友雅様と一緒にしないでくださいな。わたしにはそのような御方はおりませんわ」
実際、には恋人などいなかった。中には心を動かされそうな殿方もいたのだけれど、なぜだかそんな気になれなかったのだ。朋輩達はその才を競うのと同じに、恋の鞘当てに熱心になっていたけれど、はその中に混じることはなかった。
「今のわたくしにはお役目を全うするので精一杯ですもの」
そう言って笑うを、友雅は好もしく思っていた。最初は話しかけてもそっけないを面白がっていた友雅だったのだけれど、何度か顔を合わせるうちにようやく打ち解けてくれたようで、とは男女の仲というよりも旧知の友人のような関係になっていた。
聡明なと会話するのは面白く、友雅はこの友人関係を大切に思っていた。そして、そんな自分にも少し驚いてもいたのだが。
「それに里に帰るよりも、宮中にいたほうが快適ですもの」
「母君は君に会いたがっているかもしれないよ?」
「良いのです。母には父が居りますから。かえって、わたくしがいるほうが
邪魔かもしれませんわ」
至極まじめな顔で言うがおかしくて、友雅は思わず口元をゆるめた。
の母は宮家の姫君だったのだが、学者だった父と恋に落ち、半ば駆け落ちのような形で結婚したのだそうだ。無論、母の実家からは勘当されたような状態で、学問一筋の父には世間を生き抜いていくような才覚はなく・・・。は宮家の血をひく姫君として生まれながらも、生活を支えるためその才覚を生かして女房として宮中へやってきたのだ。
普段はにぎやかな藤壺も、中宮の宿下がりに大勢の女房がお供していったので、室内はシンと静まり返っていた。
静かな室内で、友雅とはとりとめのない話をしていた。
「あら、雨が・・・」
先ほどまで晴れていたのに、にわかに空が灰色になり、ポツリポツリと水滴が空から落ちてきた。
「・・・・・・」
不意に降りだした雨に、友雅は急に無口になった。その表情を見て、何か友雅にあったのだとは直感的に思った。やはり、先ほど感じた違和感は間違いではなかったらしい。
・・・わたくしに話してくださるかどうかわからないけれど。
「友雅様・・・」
「なんだい、殿?」
「なにか・・・ございました・・・?」
ハッキリと口に出すのは憚られてそれとなく聞いてみたのだが、ハッとしたような友雅の表情に、やはり何かあったのだとは思った。
「・・・あなたには敵わないね」
直衣に焚き染めた薫物がふわりと香ったかと思うと、は友雅の腕の中に捕らわれていた。
「と、友雅様!?」
友雅と知り合ってからそれなりの時間が流れていたが、ふたりの関係は友人以上のものではなく、このように触れられたことなど一度もなかったのだ。
「これ以上なにもしない・・・だから今はこのままでいさせておくれ」
慌てて友雅の腕の中から逃れようとしただったのだけれど、いつもと違う友雅の声音にはその動きを止めた。
「どうかなさいましたの?」
「古い友人に――いや、友人とも呼べないような昔の知り合いに会ったのだよ。
その男は遠い国に行ってしまったのだと思っていたのだけれど、そうではなかった・・・」
その胸に抱きしめられているには、友雅の表情は見えない。けれど、いつもは甘やかに響くその声がどことなく苦しげに聞こえる。
「その男はこう言った――ただひとり、この世をさまよっていたのだと。
誰からもその存在を忘れ去られ、無明の闇のなかにいたのだと・・・」
「その友人の方はそれからどうなさいましたの?」
友雅はそれには答えなかった。しばしの沈黙のあと、友雅は静かに言った。
「いつか私もそのようになるのかと思ってしまったのだよ・・・」
「友雅様・・・」
「ただ誰かに愛されたかったのだ、誰かを愛したかったのだ・・・と彼は言った」
大勢の女人に愛されている友雅――それなのに、は友雅がとても寂しいように思えた。
「あなたもいつか、心から愛せる方にめぐり合えますわ」
「そうだろうか・・・とてもそうは思えないけれど」
自嘲的に呟く友雅を、はそっと抱きしめた。
「わたくしの母は宮家の姫君として風にも当てぬように育てられましたわ。でも、
父と出会って、恋に落ちて・・・。
愛しいひとに逢いたいがために、夜の闇をも恐れずに邸を抜け出して、
父に逢いに行ったそうです。
いまの母は、そんな情熱的なひととは思えませんけれど・・・」
「・・・」
「いつかきっと、友雅さまのお心を奪い取る方に出会えますわ」
「殿・・・」
橘友雅という男はこんな儚げなひとだったのだろうか、とは思った。いつも悠然としていて、自信ありげに見えるというのに・・・。
「ですから、ご安心なさって。わたくしが嘘をついたことはないでしょう?」
まるで幼子に語りかけるようなの口調に、友雅は表情を緩めた。
「ああ、そうだね・・・。それに、私の心を奪い取るのは殿かもしれないし?」
「あら、わたくしは、わたくしひとりを愛してくださる方でなくてはいやですわ」
互いをただひとりのひととして愛し合う両親を見てきたせいか、は何人も妻を持つような男はいやだった。この時代では何人もの妻を持つのは普通だったけれど。
「なら、私が『あなたひとりを愛して生きていく』と誓ったら?」
友雅の口調がいつもどおりに戻ったような気がして、は気づかれぬようにホッとため息をもらした。
「それなら、少しは考えてあげてもよろしいですわ」
クスリと笑って答えたを、友雅はもう一度強く抱きしめた。それに驚いたは小さく悲鳴をあげた。
「・・・あなたは本当に得難いひとだね」
他の恋人達なら気づかないような友雅のわずかな変化を感じとり、その痛みを癒してくれた・・・。
「もう離してくださいません?誰かに見られたら困りますもの」
「そんな風に言われると、ますます離したくなくなるね」
「からかうのはお止しになってくださいな」
はわざとツンと澄ましてそう言うと、するりと友雅の腕の中から抜け出した。不意に消えたぬくもりに、友雅はなぜか無性に寂しさを覚えた。
「雨が上がったようですわ」
にわか雨だったのだろうか、空はすっきりと晴れ渡っていた。庭の木々も雨に洗われて、美しく輝いていた。
「そろそろお仕事にお戻りなさいませ。でないと、主上に申し上げますわよ」
「おやおや・・・それでは、そろそろ退散するとしようか」
友雅を見送るために立ち上がったが、不意に頬を赤く染めた。
「どうしたんだい?」
「いえ・・・なんでもありませんわ」
の衣から立ち昇ったのは白檀の香り――友雅が抱きしめたいたせいで香りがうつったのだろう。
「・・・おや、これではまるで後朝の別れのようだね」
「っ!?」
「本当に君と一夜を過ごしたのなら、別れがたく思うのだろうね」
友雅がの耳元で甘く囁くと、なおいっそうの頬が赤くなった。
「か、からかうのはもう・・・っ!」
「おや?私はからかってなどいないつもりだけれど」
友雅がしれっとして言うとが睨んできたが、友雅の目には愛らしく映る。
「これ以上苛めると、あなたに嫌われてしまいそうだね。そろそろ退散するとしようか」
クスリと笑った友雅はいつもの友雅で・・・。
「他にも美しい花はたくさんあるというのに、なぜ君に逢いたいと思うのかわかったような気がするよ」
「はい・・・?」
「いや、なんでもないよ」
友雅は柔らかな笑みを口元に浮かべ、青い空を見上げた。
いかにして いかにしらせむ ともかくも いははなへての ことのはそかし
(この想いをどうやって伝えようか・・・?
『愛している』などといっても、ありきたりの言葉になってしまうのに)
さて、どうやって君への想いを言の葉にのせようか・・・?
あとがき
ネオロマ企画、記念すべき第1作目。
企画サイトにアップしたのは・・・2006年10月22日(^^;)
この設定をかなり使いまわししております(笑)
シチュエーションとしては『舞一夜』エンディング後と思ってくださいませ。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年6月16日