我侭
――内裏での姿を見かけなくなってから、もう10日近く経っている。
友雅は次第に落ち着かない気持ちになっていた。
の姿が見えなくなってから、藤壺を訪れるのは何度目だろうか。
左大臣家の姫君である藤壺中宮のもとに、友雅はご機嫌伺いによくきていた。と知り合ったのもその時である。
というのは中宮付きの女房のひとりだ。彼女は宮家の血を引く姫君でありながら、生活を支えるために宮中へ出仕している変り種である。そういう経緯があるせいか、ほかの女房達のように恋愛沙汰にうつつを抜かすこともない。熱心にお仕えしているので中宮にも気に入られ、常に中宮のお傍に控えていた。
そして今日、友雅は帝とともに藤壺を訪れていた。
いつもなら、帝が訪れたときには必ずといっていいほどが中宮のお傍に控えているのに、その姿はなかった。
・・・何かあったのだろうか。
「友雅、どうした?」
「・・・申し訳ございません。少し考え事をしておりました」
御簾の向こうで帝が小さく笑っているのがわかった。常にはない友雅の様子に帝は気づいているらしかった。
「さて、友雅の心を占めているのは・・・」
「主上」
思わずたしなめるような口調になってしまった友雅に、帝は笑みをもらす。
「中宮、今日ははどこに・・・?」
「・・・宿下がりをしておりますわ」
藤壺女御はどこか機嫌が悪そうな声で答えた。そして、一瞬の間を空けて「病で」と付け加えた。
「・・・病?」
最後に逢ったときはあんなに元気そうだったのにと、友雅の胸を不安がよぎる。
一方、御簾の向こう側で帝は驚いていた。友雅にあんな顔をさせる女人がいたとは・・・。
「中宮、あまり意地悪をするものではないよ」
と、小さな声で藤壺女御に囁かれる。
「でも、主上・・・」
藤壺女御はイタズラが見つかった子供のような表情をした。
「あの娘はわたくしの一番のお気に入りなんですもの。それを攫っていこうとされる
友雅殿がお悪いのですわ」
まだまだ子供っぽさの残る中宮に帝は苦笑される。
左大臣家の姫君として我侭いっぱいに育てられた彼女を叱ることができるのは乳母とだけだ。中宮である自分をなんの遠慮もなく叱りつけてくるは本来ならうっとおしい存在であるはずなのに、それを身近に置くのは、が自分のことを考えてくれていることがよくわかっているからだった。
周囲の誰もが中宮である自分の機嫌をとろうとする。けれど、は違った。
は間違っていることは間違っているときちんと指摘し、自分を正しい方向へ導こうとしてくれる。確かに口うるさい存在ではあるが、得がたい存在であることも事実だ。
「それに友雅殿は艶聞の絶えない御方・・・。を悲しい目にはあわせたくないのです」
「ふむ・・・だが、しかし・・・」
御簾越しに見る友雅の憂えた様子ときたら、帝が初めて見るものだった。
「では中宮、に見舞いの文でも書いてみたらどうだね?病で不安になってもいるだろうし」
「主上・・・」
「文は友雅に届けてもらえばよかろう」
藤壺中宮が答えるまえに、友雅の『御意』という返事が聞こえた。中宮はかすかにくちびるを尖らせて帝を睨みつけたが、帝はクスクス笑っている。
いったいどのような女人が友雅の心を解かすのかと思っていたが・・・。
「主上は友雅殿のお味方をなさるおつもりですの?」
「そういうわけではないが・・・私は見てみたい気がするのだよ」
橘友雅という男が、心から誰かを欲する姿が・・・。
「何を、でございますか・・・?」
中宮がお尋ねになっても、帝は柔らかな笑みを口元に浮かべられるだけでお答えにはならなかった。
「早く文を書きなさい。友雅が焦れているようだよ?」
「わかりましたわ・・・」
藤壺中宮はため息をひとつつくと、控えている女房に紙と筆を用意するように頼んだ。
の住まいは六条のはずれにあった。小さな邸だが、美しく手入れされている。
友雅が来訪を告げると、中宮からの文使いということもり、すぐさま奥へと通された。
・・・視線を感じる。それも大勢の。
この邸の女房達なのだろうか、几帳の奥から見られているような気がする。さてどうしたものかと友雅が思案していると、ほどなく衣擦れの音が聞こえてきた。
「あなたたち、もうお退がりなさいな」
――聞こえてきたのは涼やかなの声だった。
「でも、姫様・・・」
答えているのは女房のひとりか。几帳の向こうで人の気配がいくつかするのだが、顔を見ることはできない。
「そのようにじっと見つめていては、友雅様に失礼でしょう?」
そうして、の小さな笑い声が聞こえてきた。
「内裏のそとでも人気者ですのね、友雅様は。我が家の女房たちが勢ぞろいしていましたわ」
「殿・・・」
以前と変わらぬ元気そうな声に、友雅はほっと息をついた。しかし、几帳ごしではその顔は見えない。
「身体の具合はもうよろしいのか?」
「はい?わたくしの?」
の声は元気そのものに聞こえるが、どうにも会話がかみ合っていないような気がする。
「殿、どうかこちらに出てきてくれまいか?几帳ごしなど、
君と私の仲でよそよそしいと思わないかい?」
「・・・そのような言い方をされては、女房達に誤解されてしまいますのに」
少し困ったような声音のだったけれど、カサリと衣擦れの音がした。
「殿・・・」
「お久しぶりですわね、友雅様」
几帳の蔭から現れたは常と変わらぬ柔らかな微笑を浮かべていた。
「突然、どうなさ・・・」
友雅はその微笑に誘われるように、我知らず動いていた。
「と、友雅様っ?!」
柔らかな袿を何枚か重ねた姿のを、友雅は思わず抱きしめていた。
「良かった・・・。私の知らぬ間にあなたが儚くなっていたらと恐ろしくてたまらなかった」
いきなり抱きしめられて驚いていただったのだが、友雅の様子がいつもと違っているような気がして、は慌てて尋ねた。
「本当にどうなさったのですか、友雅様・・・?それに、わたくしが儚くなるなどと」
友雅はを抱きしめていた腕をほんの少しゆるめると、の柔らかな頬にそっと指を触れさせた。
「っ!?」
「本当に君なのだね・・・」
友雅に愛しげな瞳で見つめられ、頬がさっと桜色に染まる。は自分の胸の鼓動が一拍早くなったような気がした。
がそこに居ることを触れることで確かめようとでもいうのか、友雅の指先は滑らかな頬を何度もなぞる。
「と、友雅様っ・・・!」
耳まで赤くなったがトンと友雅の胸を押すと、友雅はようやく気づいたとでもいうようにその抱擁を解いた。
「いったい、どうなさったのです?」
友雅の腕がゆるんだのをこれ幸いと、は身体を引いた。女房達をさがらせておいてよかったと思う。友雅に抱きしめられるところを皆に見られていたとしたら・・・。
「中宮様から、君が病で宿下がりをしていると聞いたのだよ」
「わたくしが病?・・・病だったのはわたくしではなく、母ですわ」
が宿下がりをする数日前から母の具合が良くなくて心配していたのだが、父から文がきて母が危篤だという。は慌てて中宮に許しをもらい宿下がりをしたのであった。
「中宮様が薬師を寄越してくださって、母はすっかり元気に・・・」
「・・・では、私は中宮様に謀られたということか」
友雅は苦笑を浮かべた。そう言われれば、中宮は『が』病だとは言わなかった。
「主上が中宮様に見舞いの文を書くようにとおっしゃられて、
私が文使いとしてやって来たのだよ」
「主上が・・・?」
そうつぶやくと、は不思議そうに首をかしげた。。
「父から文が届いたとき、たまたま藤壺に主上もいらしたのです。ですから、
わたくしの母が病ということは主上の御耳にも入ってしまっていたと思うのですけれど」
「なるほど、そういうことか・・・」
「友雅様?」
ひとり納得がいったような表情の友雅に、はますます訳がわからないという表情を浮かべた。
主上には気づかれていたということか・・・。
おそらく藤壺中宮は友雅をから遠ざけようとしたのだろうと思われる。は中宮のお気に入りだったし、宮中で自分がどんな噂をされているか友雅はよくわかっていた。
が病だと聞いても、友雅はそう簡単にを訪ねていくこともできない。けれど、中宮の文使いという名目があれば・・・。
「忍ぶれど 色に出でにけり、といったところか・・・」
友雅は小さな声でつぶやき、柔らかな微笑を口元に浮かべた。
自分の感情を表に出すことをよしとしない友雅だが、どうやら帝には見抜かれていたようだ。それとも、単にに対する感情を隠しきれていないだけなのかもしれないが。
――友雅は、今の自分が嫌いではなかった。
という存在は、無くしてしまったと思っていた感情を友雅に思い出させてくれる。誰かを愛しく想うせつなさも、そして嫉妬という苦しみも。
に惹かれていく自分を興味深く分析している冷静な自分もいるのだが、が病だと聞いて、そんな冷静な自分はどこかへ行ってしまった。
いつの間に、こんなに心を奪われてしまっていたのだろうね・・・?
「友雅様?わたくしにもわかるようにお話してくださいませ」
「君の母上のご病気はもう大丈夫なのかい?」
話をそらされたとは思ったが、素直に答える。
「はい。おかげさまですっかり元気に・・・。わたくしも明日には内裏に戻ります」
「そうか。なら、また藤壺で君に逢えるのだね?」
「はい、そうですわね」
は友雅から中宮の手紙を受け取ると、サラサラと筆を走らせ返事を書いた。
「内裏へ戻ったら、中宮様にきつく申し上げなければ」
「何をだい?」
「まるでわたくしが病のように友雅様に申し上げたことですわ」
どうしてそのようなことを、とプンプン怒っているに、友雅はクスクスを笑い声をもらした。
「中宮様にお小言を申し上げるのはやめておくれ。私がこうして君に逢えたのは
中宮様のおかげでもあるのだから」
「そうはおっしゃられても・・・」
「それなら主上にも一言申し上げねばなるまいね。あなたの母君が病とご存知だったのに、
中宮様に文をお書きになるようおっしゃられたのだから」
「主上にそのような恐れ多いこと・・・」
友雅はクスリと笑うと、そっと手を伸ばしてもう一度の頬に触れた。
「私もあなたに一言申し上げたいことがある」
「はい・・・?」
再び友雅に頬に触れられ、の頬が桜色に染まる。友雅の瞳に見つめられると、の心はザワザワと落ち着かなくなる。
どうしてこの方はこのような瞳でわたくしをご覧になるのかしら・・・?
「お恨みもうしあげるよ、殿」
「え・・・?」
甘い声音とは裏腹な友雅の言葉に、は驚き慌てた。
「え・・・?あ、あの・・・」
常になく落ち着きをなくしている風な様子のを見て、友雅はふっと笑みを浮かべた。
「宿下がりをなさることを、なぜ私に知らせてくれなかったのだい?」
「それは」
もそれは一瞬考えたのだ。しかし、いくら親しくしているとはいえ、このような身内のことまで知らせるのはどうかと思い、結局は友雅に文も出さぬままに退出してきたのだった。
「私が心配するとは思わなかった・・・?」
優しく尋ねられると、には返す言葉もない。
「どうやら、私があなたを想っているほど、あなたは私のことを
気にかけてくださっていないようだ・・・」
ため息まじりに寂しげにつぶやかれると、それはそれはの罪悪感をチクチクと刺激する。
「友雅様・・・」
「確かに私は不誠実な男だが、あなたに対してだけは誠実な気持ちでいたというのに・・・」
「友雅様・・・」
は降参とでもいうように肩をすくめた。
「ふぅ・・・わたくしの負けですわ。今回は友雅様にご心配おかけしました」
「では、これからは、何かあったときは私に真っ先に知らせると約束してくれるかい?」
「ええ、わかりましたわ」
困ったように笑うに、友雅は甘い微笑を浮かべる。
「困った御方ですわね、友雅様は」
「おや、そうかな?
けれど、あなたは私の我侭を聞いてくださるのだろう?」
「・・・本当に困った御方」
そう答えたに、友雅はゆったりと微笑んだ。
いまはまだ、君という美しい花を吹き荒れる嵐から護るのが私の役目といったところか。
私と同じだけの情熱を君から返して欲しいと願うのは私の我侭なのかい・・・?
――あなたという存在が、とうに無くしてしまった私の情熱を呼び覚ます。
【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
和歌の解説集を読みながら思いついた創作です。
友雅さんなら、きっと素敵な歌が詠めるのでしょうね。
忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
(恋しさを抑えて心の内に忍んできたけれど、いつか私の恋心が表に出てしまい、
「恋をしているのか?」と人に尋ねられられるようにまでなってしまった。)
作者:平兼盛(たいらのかねもり) 出典:拾遺集・恋一
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年6月16日