恋愛観念




「ねぇ、伊勢の君、いい加減泣き止んでくださいませ」
「・・・だって・・・・・・」
しゃくりあげて泣いている伊勢の君を目の前に、どう慰めたものかとは困り果てていた。



藤壺中宮にお仕えする女房であるは、自分の房でのんびりと午後の時間を楽しんでいた。中宮のお気に入りであるは常ならお側に控えているのだが、今日は別の女房をお供に中宮は弘徽殿へお渡りになられたので、ぽっかりと時間が空いたのだった。
春の日の午後を楽しんでいたのところへやってきたのは、朋輩の伊勢の君であった。
「いったいどうなさったのです?」
「・・・・・・」
いつも笑みを絶やさず、少々賑やか過ぎる気もするが、明るい性格の伊勢の君とは仲が良かった。そんな伊勢の君が目を真っ赤にして泣いているので、は非常に驚いていた。
「わたくしで力になれるかどうかわかりませんが、泣いている理由を
 教えてくださいませんか?」
「あのひとが・・・」
「あのひと?」
「・・・裕福な受領の娘を・・・北の方に迎えたって・・・」
「まぁ・・・」
伊勢の君の言う『あのひと』というのは、ここ最近伊勢の君の元へ通ってきていた男のことだろう。
「それで、春の除目で新しいお役目をいただいたから、筑紫へ下ると・・・」
そう言うと、伊勢の君はまた泣き出した。伊勢の君の手の中でくしゃりと握りつぶされているのは、その男からの文だろうか。
は小さくため息をつくと、伊勢の君の肩をそっと抱きしめた。
「そんな不実な男のことは忘れておしまいなさいな」
「あの方は、わたしのことを愛してるっておっしゃったのに・・・」
さてどうやって慰めたものかとが悩んでいると、女童(召し使いの少女)がやってきた。
「橘少将様がお出でになりました」
「まぁ・・・」
間の悪いときにとは思ったが、こんな状態の伊勢の君をひとりにする気にはなれなかった。
「いま取り込んでおりますので、と友雅様にお伝えしてちょうだい。
 あとでお詫びの文を書くから」
はい、と女童が友雅に伝えに行こうとするのを引き止めたのは、伊勢の君だった。
「いいのよ、殿。わたしならもう大丈夫だから。友雅様を追い返すなんて失礼でしょう」
「でも・・・」
伊勢の君は涙を拭うと、静かに部屋を出て行ってしまった。そして、入れ替わるかのようにやってきたのは友雅だった。
「伊勢の君はどうしたのだい?なんだか様子がおかしかったが・・・」
「・・・・・・」
左大臣家の姫である藤壺中宮のもとへ、友雅はしばしばご機嫌伺いにやってきていた。その時にと知り合ったのである。
学者の父と宮家の姫であった母を持つは、生活を支えるために女房として出仕したという変り種だった。の両親は半ば駆け落ちのような状況で結婚し、母の実家からは絶縁されている。学問一筋の父に生活を支える力などなく、生活を支えるためは女房として内裏へとやってきたのである。
そういう経緯があるせいか、色恋沙汰にうつつを抜かすこともなく熱心にお仕えしているので、あっという間に藤壺中宮のお気に入りの女房となったのだった。主上のお側近く仕えている友雅とは自然と顔を合わすことも多く、いつの間にやら友人のような関係になっていた。・・・友雅にはそれが物足りなくなっていたのだけれど。
「男の方というのはどうして心変わりをなさるのでしょうか・・・」
ため息混じりに呟いたに、友雅は内心穏やかではなかった。
「・・・私の知らぬ間に、殿に想うひとでもできたのかな?」
「わたくしのことではございませんわ」
「ああ・・・伊勢の君か・・・」
伊勢の君とは友雅も顔見知りだった。いつもなら元気よく(元気がよすぎるほど)あいさつをしてくれるのに、今日は袿の袖で顔を隠して、そそくさと逃げるように行ってしまったのだ。はそれ以上話そうとはしなかったが、友雅には事情が飲み込めた。
「心変わり・・・ね。なんとなく想像はつくが」
あっさりと答えた友雅が気に入らないのか、は少し視線をきつくした。
「そんな殿方でも、伊勢の君はまだ・・・」
いつも朗らかな伊勢の君があのように沈んでいるのだ。彼女は恋人を深く愛していたのだろうと思われた。
「ひとの想いというものは、そう簡単に消えはしないということかもしれないね」
「・・・・・・」
そうなのだとすれば、目の前にいる友雅はなんと罪作りな男だろうか。もっとも友雅の恋の相手はいずれも世慣れた女性ばかりと聞く・・・。そういった意味では合意の上とも取れなくはないが。
はなぜだか胸が苦しいような気がした。自分でも気づかぬうちに、は次第に苦い表情になっていった。
「恋とは絵物語のように甘いものばかりではないよ」
のその様子は伊勢の君を思ってのことだと、友雅は勘違いしたらしい。
「それでは、恋とはどういうものですの?」
にとって、愛や恋というものは甘く穏やかなものという印象がある。それは互いをただひとりの人として愛し合う両親を見て育ったためだろうか。それでは友雅はいったい恋をどういうものと考えているのだろうかとは知りたくなり、つい尋ねてしまったのだ。
至極まじめに尋ねてくるに、友雅は苦笑を浮かべた。書も歌も優れ、機転も利くなのに、どうやら色恋には少々疎いようだ。そこが友雅を困らせている点なのだが。
「ふふ、それは難しい質問だね。
 恋か・・・それは甘く蕩けるような悦びを与えてくれるもの。そして」
「そして?」
「己が身を焦がすような熱さと苦しみを与えてくれるもの・・・」
「身を焦がす・・・」
「ああ、そうだよ」
そのような想いはもう忘れてしまったと思っていたのに、君という存在がそれを思い出させてくれた・・・。
友雅は手の中の扇を弄びながら、ふふと柔らかな笑みを口元に浮かべた。
「そのように苦しいものだというのに、どうして人は恋をするのでしょう?」
「苦しいとわかっていて恋をする――それが人というものなのかもしれないね。
 想いが報われる、ただ一瞬だけを願って・・・」
目の前で優雅な微笑を浮かべているこの男は、いったいどんな恋をしてきたのだろうか。そして、いま恋をしているのだろうか・・・?
はついつい友雅をじっと見つめてしまっていたらしい。友雅は魅惑的な笑みを返す。
「あなたに恋の悦びを教えるのが私であればよいのに、ね」
友雅の甘い囁きに、はハッと我に返り、頬を赤らめた。
「友雅様ったら、またお戯れを・・・」
「――本気だと言ったら、あなたはどうなさる?」
「え・・・?」
あっという間には友雅の腕の中に捕らわれていた。友雅の香がふわりと漂う。
「と、友雅さ・・・っ」
殿は無防備すぎるね・・・。私の知らぬ間に誰かに攫われてしまいそうな気がするよ」
「そのようなこと・・・」
はなんとか友雅の腕の中から逃れようとしたが、男女の力の差もあり、まして友雅は武官である。の力では、到底友雅の抱擁を解くことはできない。
しかし、このように自分の意思を無視して抱きしめられているというのに、嫌な気持ちにならない自分が不思議でもあった。
以前、恋文になかなか色よい返事をかえさないに業を煮やした公達が無理やりに迫ってきたことがあった。そのときは非常に不快で恐ろしくもあり、持っていた桧扇でその公達の手をぴしゃりと撥ね退けた。
けれど、どうしてだか友雅にはそれができない。それどころか、胸が高鳴り、うっとりと身を寄せてしまいそうになる。
「・・・それとも、私がこのまま攫ってしまおうか」
「っ?!」
友雅が自分をからかって遊んでいるのだろうと思い、はキッと友雅を睨みつけようとしたのだが。
――驚くほど真摯な眼差しの友雅がそこに居た。
「友雅様・・・?」
「ふふ・・・早く私の腕の中から逃れないと、本当に攫ってしまうよ?」
そう言って華やかな笑みを浮かべる友雅に、先ほどの真剣さは自分の見間違いだったのかとは思う。
「と、友雅様は、わたくしの意に染まぬことを無理強いなさったりしませんわ」
殿は私をずいぶん信頼してくださっているようだが、男など信用してはいけないよ?」
友雅は苦笑をもらすと、の黒髪にそっとくちびるを寄せた。
「恋の前では人はだれでも愚か者だ。私とて例外ではないよ」
「そんなふうには思えませんわ。友雅様はいつでも余裕がおありに見えますもの」
抱きしめられたままで恥ずかしいのか視線をそらせたまま答えるに、友雅はいっそうの愛しさがつのるのを感じた。
本当に君をこの腕の中に閉じ込めてしまいたいね・・・。
だが、これ以上そばに居ては本当にを攫ってしまいそうな気がする。友雅は名残惜しく思いながらも、その腕の檻をそっと解いた。
「このままではあなたの意に染まぬことをしてしまいそうだ。
 そうなる前に退散するとしようか」
どこまで本気なのか、友雅はそう言うと、強引だった抱擁が解かれた。本当ならホッとするはずなのに、それを寂しく思う自分には驚いていた。
この方は世慣れぬわたくしをからかっているだけ?それとも・・・?
「――殿は今宵の管弦の宴には参られるのだろう?」
ふたりの間に生まれた奇妙な沈黙を打ち破るかのように、友雅が言った。
「あ、はい・・・。中宮様のお供で参ります」
「私は主上から琵琶を奏でるようにと申し付けられていてね」
「まぁ。それでは友雅様の琵琶をお聞きすることができるのですね」
楽しみですわ、とは嬉しそうに言った。友雅もゆったりと微笑み返す。
「では今宵また」
「はい・・・」
友雅は名残惜しげに藤壺を去っていく。その後姿を、御簾の影からはそっと見送った。


時は春。今を盛りと、内裏の庭では桜が咲き誇っていた。
ひらりはらりと舞う薄桃色の花びらの雨を受けながら、友雅はひときわ美しく咲く桜の木の下に立つ。
美しく咲く花――その姿で人を魅了する。花に罪はないが、心を惹きつけてやまない美しさが憎らしくもある。
掌の上に舞い落ちた花びらを、友雅は愛しげに見つめた。

――美しき花よ、いつか私のためにだけに咲いておくれ。




【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
観念・・・物事について抱く考えや意識。
お題の意味がわからず、思わず辞書で調べてしまいました(笑)

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 2007年6月16日