耳元で囁く声
「・・・疲れた」
は深いため息をついた。
は藤壺中宮にお仕えする女房のひとりである。彼女は宮家の血を引く姫君でありながら、家族の生活を支えるために宮中へ出仕しているという変り種であった。
いつもは元気なが珍しくグッタリしているのは、宮中で『女楽』が催されたためであった。
弘徽殿皇后が琵琶を、藤壺中宮は筝(そう)の琴を、そして他の女御が和琴(わごん)と琴(きん)の琴を演奏されたのだ。御前で披露するということもあり、藤壺中宮は熱心に筝の琴を練習されていたのだが、それに手ほどきをしたのがだったのだ。自身は宮家の姫であった母から習ったのだが、なかなかの奏者で、そこを見込まれてぜひ手ほどきをと藤壺中宮から請われたのだった。
『女楽』を催すことが決まってからは、それこそ連日連夜の練習であった。
熱心な練習の甲斐があって、『女楽』は大成功であった。弘徽殿皇后の琵琶の音は涼やかに、藤壺中宮の筝の琴は愛らしく、初夏の宵に響き渡った。主上からもお褒めの言葉を頂き、藤壺中宮は嬉しそうなご様子であった。
「ありがとう。そなたのおかげで素晴らしい演奏ができたわ。
明日はゆっくり休んでちょうだい」
「ありがとうございます、中宮様」
宴はまだ続いていたが、『女楽』が終わったあと、はひとり先に自室へと引き上げたのだった。
遠くから聞こえてくる楽の音に耳を傾けながら、は目を閉じて、脇息へともたれかかった。
――この琵琶の音は。
風にのって聞こえてくる華やかな琵琶の音色は、友雅のものに違いなかった。はザワザワと心が落ち着かなくなるような心地がした。
友雅も宴にきていたことに気づいていたけれど、あえては気づかぬふりをしてしまった。これまでずっと友人として接してきたのに、自分の中にそれ以上の想いが芽生えつつあることに気づいてしまったは、どう振舞ってよいのかわからなくなっていたのだ。
今宵の宴でも、友雅は美しい女人達に囲まれていることだろう。宴を途中で辞してきたのは、そんな友雅の姿を見たくなかったということもあったが、自分の中に沸き起こるであろう嫉妬という感情がイヤだったのだ。
嫉妬という醜い感情――できることなら、そんな感情は知らないままでいたかったと、はくちびるを噛んだ。
『恋とは甘くて、苦いもの』
いつか友雅はそう言っていなかっただろうか。あの時は『苦い』という意味が理解できなかったが、今はイヤというほど理解できた。
そもそも自分と友雅は特別な関係でもないのに、とは自嘲的な笑みを浮かべた。
恋人ではなく、ほんの少しだけ親しい友人・・・ふたりの関係はただそれだけなのに、嫉妬している自分が愚かしくて仕方がなかった。
いつの間にか、うとうとしてしまっていたらしい。誰かが御格子を叩く音では目を覚ました。
「どなた・・・?」
遠くからは楽の音や、人々の騒ぐ声が聞こえていた。まだ宴が続いているということは、それほど長い時間眠ってしまったわけではないらしい。
他の女房の誰かが戻ってきたのかと思い、声をかけてみると、答えたのは友雅だった。
「私だよ。ここを開けてくれまいか」
「友雅様・・・?」
まだ宴は続いているだろうにと不審に思いつつ、は御格子を上げた。
「どうなさいましたの?なにか・・・」
「あなたが宴の途中で退席されたので、どうされたのかと思ってね。
体調でも優れないのかい?」
友雅に気遣わしげな表情で尋ねられると、自分が退出した理由を思い出し、はほんの少し罪悪感を感じた。それと同時に、友雅が自分のことを気にかけてくれていたのだと思うと嬉しかった。
「いえ、少し疲れてしまって・・・」
「そういえば、ここしばらく、中宮様に筝の琴の手ほどきをされていたのだったね」
「はい。友雅様は『女楽』をお聴きになりました?」
「ああ、もちろん。中宮様は以前よりも格段にお上手になられていた気がしたよ」
「ありがとうございます!」
友雅がそう褒めると、は我がことのように喜んだ。の嬉しげな表情を見て、友雅も笑みを浮かべた。
「やはり、教える師がよいのだろうね。あなたの筝の琴は素晴らしいから」
「いいえ、わたくしなど・・・。友雅様に褒めていただけるようなものではございませんわ」
はそう謙遜するが、友雅は以前たまたま耳にしたの琴の音を覚えていた。同じ楽器を奏でても、奏者の個性がでるのだろうか、の紡ぎだす琴の音は限りなく優しい音色をしていた。
「いつか、私のためだけに琴を弾いてくれるかい?」
「お安い御用でございますわ。でも、タダというわけには参りません」
「ん?」
友雅がおや、という表情をすると、はふふっと楽しげに笑った。
「わたくしが琴を弾くかわりに、友雅様は琵琶を奏でてくださいませ」
「それこそ、お安い御用だよ」
クスクスとふたりは笑いあう。
友雅は密かに胸をホッとなでおろしていた。このところ、に避けられているような気がしていたのだ。
今夜の宴でも、は友雅に気づいている風だったのに、声をかけることもなく、ましてや目をあわそうともしない。
自分がの機嫌を損ねるようなことをしてしまったのだろうかと友雅は考えてみたのだが、思い当たるのは弘徽殿での一件・・・。友雅としてはの気持ちの一端を知ることができた嬉しい一件なのだが、当のにとっては恥ずかしいことだったのだろう。
『恋とはどのようなものですの?』
そう真顔で尋ねてきたは、まだ恋を知らないのかもしれない。そんなに、自分の胸のうちにある嵐のような強い感情を押しつけようとすれば、彼女は怯えて逃げてしまうだろう。
を怯えさせないよう、慎重に行動しようと友雅は決めていた。一歩ずつ、一歩ずつ近づいて、いつかこの腕の中にを捕らえてしまおう、と。
「殿」
「はい?」
「もしよければ、これから少し私につきあってくれないかい?」
「・・・・・・」
が迷っている風だったので、友雅は重ねて言った。
「なに、すぐそこの渡殿までつきあってほしいだけだよ。
夜更けに男とふたりきりで一部屋に閉じこもっているよりも安全だと思うけれど?」
「っ!?」
かぁっと頬が赤くなるのが自分でもわかった。しかし、友雅の瞳にからかうような楽しげな色が浮かんでいるのを見て取ったは、ツンと澄まして言った。
「あら、友雅様はそんなに危険な殿方でしたの?」
の答えを聞いて、友雅は面白そうに肩をすくめてみせた。
「なら、私がどれだけ危険な男か、確かめてみるかい・・・?」
友雅の手が伸びてきたかと思うと、すっと頬を包み込み、瞳を覗き込まれた。その瞳に浮かぶ魅惑的な光に魅了されてしまいそうになったは慌てて答えた。
「そ、それでは、渡殿までご一緒いたしますわ」
「おや、それは残念」
クスリと笑って、友雅の手が名残惜しげに頬を撫でて離れていく。恥ずかしくてたまらなくなったは、慌てて話題を変えようとした。
「渡殿に何がございますの?」
「それは見てからのお楽しみだよ」
先ほどまでの魅惑的な笑みはどこへやら、友雅は悪戯っ子のような無邪気な笑みを浮かべた。
「暗いから気をつけなさい」
「はい」
暗いとは言いながら、今夜は月明かりに照らされて足元が覚束ないようなことはなかった。遠くに楽の音を聞きながら、は友雅に連れられて渡殿を歩いていた。渡殿というのは、建物と建物をつなぐ屋根のある廊下のことである。
陽が沈んでずいぶん経つせいか、頬を撫でる夜風はひんやりとして心地よかった。
「夜風が冷たくていい気持ち・・・」
「そうだね。昼間の暑さが嘘のようだ」
はふと立ち止まると、金色の月を眺めた。ここしばらくのんびりと月を眺めたこともなかったと、は苦笑を浮かべた。
「殿、こちらへおいで」
「あ、はいっ」
近くに池でもあるのだろうか、微かにだけれど水の匂いをは感じた。
「いったい何を見せてくださるのですか?」
「ふふ・・・さて、あなたは気に入ってくれるかな」
友雅が取り出したのは何やら大きな袋だった。が首をかしげていると、友雅はクスリと笑い、袋を開け放った。
「え・・・?あっ!!」
暗闇にふわりと小さな青い光が舞い上がった。
「蛍・・・!?」
「そうだよ。昨日、用があって桂川の方へ出掛けたのだけれど、
子供たちが蛍を集めていてね。あなたに見せようと思って、
少し分けてもらってきたのだよ」
「綺麗・・・」
は蛍の光をうっとりと見つめた。
闇の中をふわりふわりと小さな光が舞う。その幻想的な光景には目を奪われた。
「もっと近くで見てみたいかい?」
コクコクと勢いよく頷いたに、友雅は思わず小さな笑い声をもらした。
「では、少し待っておいで」
友雅はひらりと庭へ降りた。しばらくすると手の内に蛍を捕らえることができたらしく、の待つ渡殿の方へと戻ってきた。
「わたくし、蛍を近くで見たことがございませんの」
「そうなのかい?では、いつか宇治へ出掛けてみようか。
あの辺りは蛍の名所だからね」
ワクワクしている様子のに、友雅は思わず口元が緩む。先ほどまで藤壺中宮のお傍に侍っていた有能な女房であると、蛍を見て子供のようにはしゃいでいる――彼女の見せる新しい一面に惹かれていく自分を友雅は感じていた。
その微笑みも、その涙も・・・すべて自分のものにしてしまいたい。
「友雅様・・・?」
が少し首をかしげて、こちらを見上げていた。友雅は少し笑みを浮かべて答えた。
「ああ、すまない。月に見とれてしまっていたようだ」
「今日は本当に美しい月夜ですものね」
「あなたを迎えに月からの使者が舞い降りてきそうだね」
「あら。では、わたくしは『なよ竹のかぐや姫』ですの?」
御前に参上するため普段よりも美しく着飾り、柔らかな月の光を浴びて微笑むは美しかった。そして、を『かぐや姫』に例えたことを友雅は後悔した。
「あなたを『かぐや姫』に喩えたのは間違いだったね。
もし、あなたが『かぐや姫』なのだとしたら、私の元から
月の世界へ去ってしまう・・・。
そのようなことになったら、私は耐えられそうにないからね」
友雅の言葉を冗談だと受け取ったのか、は笑って答えた。
「残念ながら、わたくしは『ただ人』ですもの。どこにも参りませんわ」
「・・・だといいのだけれど」
友雅の呟きはには聞こえなかったらしい。は焦れたように、友雅の直衣の袖を引っ張った。
「ねぇ、友雅様、早く蛍を見せてくださいませ」
「ふふ、わかったよ」
友雅がそっと手を開くと、小さな光がぽっと灯る。
「まぁ・・・こんなに小さいのですね」
月明かりと蛍の光に照らされたの横顔を見つめ、友雅は、蛍火で玉鬘の姿を垣間見た兵部卿の宮もこのような心地がしたのだろうかと思う。
「本当に綺麗・・・あ、待っ・・・きゃ!」
ふわりと舞い上がった小さな光を追おうとして、はバランスを崩したのだ。渡殿から落ちてしまいそうになったところを友雅に抱きとめられる。
「も、申し訳ございません・・・っ」
「――あの蛍が憎らしいね」
「え?」
「かすかな光を放つだけで、この様にあなたの心を惹きつけて・・・」
友雅に強く抱き寄せられて、はハッと息を呑む。
「どうすれば、私はあなたの御心を惹きつけることができるのだろうね?」
友雅の焚き染められた香と甘い声に、はくらくらと眩暈がするような気がした。抱き寄せる男の腕は力強くて、このまま身を任せてしまいたいような心地になる。
「・・・友雅様は・・・ですわ」
「え?」
の囁きに驚いたのか、友雅の抱擁が緩んだ瞬間に、はその檻をするりと抜け出した。
「今宵は素晴らしいものを見せていただいて、ありがとうございました、友雅様。
おやすみなさいませ」
友雅が引き止める間もなく、の姿は夜の闇の中へと消えていた。
――あれは蛍火が見せた一瞬の夢なのだろうか?
そう思ってしまいそうなほど、の囁きは微かなものだった。
けれど、抱きしめた感触は確かにこの腕に残っている。そして、耳にかかった温かな吐息も・・・。
『友雅様は十二分にわたくしの心を惹きつけておいでですわ』
友雅は思わず我が身を抱き締め、夜空に浮かぶ月を見上げた。
なく声も 聞こえぬ虫の 思ひだに
人の消つには 消ゆるものかは
(鳴く声ももたない蛍火でさえ、人が消そうとしても消えないものなのに、
私の燃えるような恋心をどうして消すことができるだろうか)
【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
地白虎連続投稿でございました・・・(笑)
文中の和歌は『源氏物語』の玉鬘のお話から引用しています。『あさきゆめみし』にも
玉鬘の御簾のうちに光源氏が蛍を放つシーンがありますね。そこからイメージして
書いた創作でした。
『耳元で囁く声』は友雅さんかなと思いつつ、あえてヒロインちゃんで書いた記憶が。
建物などの設定は一応調べて書いているつもりですが、表現が誤っている場合も
ありますのでご了承ください。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年9月23日