残り香
「さ、藤姫様。どうぞ、ぐっと一息に」
「・・・・・・」
歳の割りに大人びた少女は眉間に皺を寄せて、恨めしそうにを見上げた。
「さ、どうぞ」
鼻が曲がりそうな薬湯の臭いに顔をしかめたいところであるが、はにっこりと笑みを浮かべ、藤姫に反論を許さない。
「・・・・・・」
「――せっかく藤壺中宮様が藤姫様のためにと
ご用意してくださった薬湯ですのに」
は悲しげな表情をして、わざとらしく袿の袖で目元を拭った。
「・・・」
結局、藤姫は息を止めて、酷い臭いの薬湯を飲み干したのだった。
数日前から、は左大臣邸へと参上していた。
は藤壺中宮付きの女房で、普段は内裏でお仕えしているのだが、藤壺中宮の命で左大臣邸に戻ったのである。藤壺中宮の異母妹の藤姫が風邪で寝込んでいるということで、身分柄なかなか宿下がりできない藤壺中宮に代わって、が見舞いにきたのだった。
「お熱は下がったようで、よかったですわ」
「わたくしはもう元気です」
さきほどの薬湯がよほど口に合わなかったのだろう、藤姫はちょっとくちびるを尖らせた。
「でも、咳が止まらなくて、夜ぐっすりとおやすみになれていないと
お聞きしましたわ」
「それは・・・」
「中宮様もご心配されていましたわよ」
「お姉様はお元気でいらした?」
藤壺中宮と藤姫とは異母姉妹にあたる。姉姫が入内してしまって寂しいだろうと思うが、藤姫はそれを表に出そうとはしない。
この年頃なら、母親に甘えていたいでしょうに・・・。
はもともと藤姫付きの女房として雇われたのである。ところが、姉姫が入内することになり、お付きの女房の数が足りないということで、見目もよく気立てもよいが選ばれたのだった。としては、せっかく懐いてくれた藤姫を置いていくのは気がかりであったが、主命とあれば仕方がなかった。
「ええ、お元気ですわ。藤姫様にお会いになりたいと
おっしゃられていましたわ」
「お姉様が・・・」
「ですから、藤姫様も早くお風邪を治さなければ。
中宮様からお見舞いの品をたくさんお預かりしていますのよ」
先ほどの薬湯のことを思い出したのか、藤姫の表情が曇る。はくすっと笑って、藤壺中宮から預かってきた見舞いの品を取り出した。
「まぁ綺麗・・・!」
が取り出したのは美しい絵巻物であった。藤姫が目を輝かせた。
「よろしければ、お読みいたしましょうか?」
「ええ!」
絵巻物を広げ、はゆったりと落ち着いた調子で物語を読んでさしあげる。藤姫はの隣に座って、美しい絵巻物に目を奪われていた。
「・・・退屈になってきました?」
しばらくすると、藤姫が小さなあくびをもらしたのだ。は苦笑しつつ訊ねてみたが、藤姫は首を横に振った。
「そうではないの。でも、なんだか眠くて・・・」
「あの薬湯のせいで眠くなっているのかもしれませんわ。
ここしばらく、咳のせいできちんとおやすみになれていないのでしょう?
物語はまた後で読んでさしあげますから、少しお眠りになられたら?」
けれど、藤姫は物語の続きをねだった。
「眠ったりしないから、続きを読んでちょうだい」
「わかりましたわ・・・」
ついぞ我侭など言わない藤姫だが、には甘えているようだ。としても、歳の離れた妹のような気さえして、藤姫の小さな我侭をきいてやりたくなるのだ。
しばらく物語の続きを読んでやっていたのだが、やがて隣から小さな寝息が聞こえてきた。
「藤姫様・・・?」
少女はまるで猫のように小さく丸まって、穏やかな寝息を立てていた。は藤姫の寝乱れた黒髪をそっと梳いてやった。
さて、どうしたものかしら・・・?
このままここで寝かせていたら、また風邪がぶりかえしてしまうかもしれない。きちんと御帳台(みちょうだい:貴人の座所や寝所)に運んで寝かせてやりたいが、の力では運んでやれたとしても目を覚まさせてしまいそうだ。
あいにく他の女房はみな下がらせてあった。誰か来てくれないものかとが思っていると、人がやってくる気配がした。
「もし、藤姫様、少将様がお見えに・・・」
「シーッ!」
やってきたのは侍従の君だった。古参の女房である。寝入ったばかりの藤姫を起こしたくなくて、は思わずくちびるに指をあてた。侍従の君も藤姫が眠っていることに気づいたようで、困ったような表情になった。どうやら客人が一緒らしい。
「まぁ、どうしましょう・・・」
「どうかしたのかい?」
「っ?!」
侍従の君の背後から現れた人物を見て、は思わず声をあげてしまいそうになった。
「おや、眠ってしまっているのかい?」
「は、はい・・・。薬湯を召し上がられたので、そのせいかと」
突然現れた友雅に戸惑いつつもがそう答えると、友雅は目をスッと細めた。いつも柔らかな笑みを浮かべている友雅しか目にしたことがなかったには、友雅のその表情はとても冷たいものに見えた。
「それでは、寝所まで私がお連れしよう」
友雅は眠る藤姫をそっと抱き上げ、寝所へと運んでくれた。少女は穏やかな寝息を立てている。どうやら目を覚ますことなく、運べたようだった。
「ありがとうございました、少将さま。
ですが、どういたしましょう?藤姫様に御用があったのでは・・・」
「藤姫に見ていただきたい本があったのだけれどね。
だが、起こすのも忍びない。目が覚めるまで待たせていただこうか」
友雅が待つと言ってくれたので、侍従の君はホッとしたようだった。ここ数日、咳のために藤姫があまり眠れていない様子であったのを案じていたのだ。見たところ、咳も治まってぐっすりと眠っているようだった。せっかくの眠りを妨げたくはなかった。
「ありがとうございます、少将さま。
それではあちらでお待ちに・・・」
「いや、こちらで待たせていただくよ。
待っている間、そちらの女房殿に話し相手になっていただこうか」
と友雅が知り合いであることを知らない侍従の君は、友雅の悪い癖がでた、と思った。この美しい新参の女房が珍しいのだろうと侍従の君は思い、やれやれとため息をついた。
だが、友雅の意向に逆らうことはできない。侍従の君はを見やると、
「わかりました。それでは後はお願いしますね、殿」
と言って立ち去ってしまった。
は『待って』と言いたかったのだが、それは友雅にさえぎられた。
「何かあれば知らせてくださるという約束はどうなったのだろうね?」
友雅に恨めしそうな瞳で見つめられ、はぐっと言葉に詰まった。
藤壺中宮から藤姫の見舞いに行ってほしいと頼まれたとき、はいい機会だと思ったのだ。ひとりになって、自分の気持ちを考えるよい機会だと・・・。
「も、申し訳ございません・・・」
「中宮様はあなたの行き先を教えてはくださらないし、
ご実家の方に文を出してみたけれど、まだお戻りではありませんとの返事・・・」
友雅に内裏を退出するという文は送っていたのだが、行き先は告げていなかったのだ。自分のその行為はどうやら友雅を怒らせてしまったらしいことに、ようやくは気づいた。ここは下手に嘘をつくよりも、本当のことを言ったほうがよさそうだった。
「少しひとりになって、考えたいことがあったのです・・・」
「それは私にも相談できないことなのかい?」
目の前の男のことで悩んでいるというのに、どうしてその本人に相談することができるだろうか。は小さく頷くしかなかった。
「ふぅん・・・美しいひとの憂い顔は心惹かれるものがあるけれど、
私はあなたには微笑んでいてほしいから・・・。
もしも、私に相談する気持ちになったら、いつでも話しておくれ」
「ありがとうございます・・・」
吐息がかかりそうなほどの距離で、友雅が囁く。その細い指先はの黒髪をくるくるともてあそんでいて、は落ち着かないこと、このうえない。
「私にとって、あなたは大切なひとだからね」
「大切なひと・・・」
友雅の言葉に、の心はかき乱される。友雅の真意を知りたいような、知るのが怖いような・・・。
「・・・友雅様はどうしてわたくしのことを気にかけてくださるのですか?」
「ん・・・?」
おや、とでもいうように、友雅は片方の眉をあげた。
「知りたいのかい・・・?」
「・・・はい」
蚊の鳴くような小さな声だったけれど、は答えた。女人なら誰もが心惹かれるような風流男の友雅が、取るに足らない自分のことを気にかけてくれるのか、は不思議でならなかった。
「では、殿はどのような答えをお望みかな?」
「え?」
「あなたの望む答えを教えてくれれば、私はその通りに答えるよ」
「それは・・・」
間近で顔を覗き込まれ、は思わず目を伏せた。頬が赤くなっていくのが自分でもわかり、恥ずかしくてたまらない。
「質問に質問で返すのはずるいですわ・・・。
わたくしがとんでもない答えを申し上げたら、どうなさるのですか?」
「ふふ、そうだね・・・。けれど、それがあなたの答えなら、
私はそれを受け入れるだろうね」
「・・・・・・」
は何か言いかけたが、途中で口をつぐんでしまう。そして、少しうつむき加減になってしまった。
「どうかしたのかい・・・?」
「・・・このような時に気の利いたお答えができればいいのに、と」
「『言葉遊び』も悪くはないけれど、今の私はあなたの本心が知りたいね」
遊びと割り切った恋なら、洒落た会話を楽しむのもいいだろう。実際、友雅はそんな恋ばかりしてきた。駆け引きを楽しむような恋ばかり・・・。
けれど、に関しては違う。彼女の心のうちを知りたかった。
自分の気持ちを先に告げずに、の心を知ろうとする自分は狡猾な男かもしれない。
「・・・わたくしのような者が話し相手では退屈でございましょう。
誰か他の者を呼んでまいりますわ」
恋の手練れである友雅に、気の利いた答えもできない自分がとても恥ずかしくてたまらなかった。宮家の血を引く姫として、両親はどこに出しても恥ずかしくないよう教育を施してくれたとは思っている。けれど、こと『恋』に関しては――こればかりは誰かに習えるものではない。
だって、『恋』など一度もしたことがないのだから・・・。
は立ち上がって他の女房を呼びにいこうとしたのだが、友雅に袿の袖を引かれ、その腕の中へと捕らえられてしまった。
「と、友雅様・・・っ」
「・・・つれない御方だね」
どこか苦しげな響きをもつ声で、友雅が囁く。は思わず友雅の腕の中から逃れようとするが、強い力で抗うことができない。
「少しは私のことを好いてくださっているかと思っていたけれど、
それは私の自惚れだったのかな・・・?」
「わたくしは・・・」
どこか怯えたようなの声に、友雅は苛立ちを感じた。こんなに愛しく想っているというのに、にこの想いは通じていないのだろうか?あの夜、自分に心惹かれていると答えてくれたのは、単なる気まぐれだったのだろうか・・・?
自分の腕の中で固い蕾が花開くのをゆっくり待とうと思っていたのに、今はめちゃくちゃに傷つけて壊してしまいたい衝動にかられる。
「い、痛・・・」
掴まれた手首が痛くて、の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。それに気づいた友雅はハッとして、慌てて手を緩めた。
「すまない。怖がらせるつもりはなかったのだよ」
の細い手首にはくっきりと赤い跡が残っていた。今にも泣き出しそうなに、友雅はひどい罪悪感に襲われた。
「・・・・・・」
「どうか許しておくれ。もうこのようなことはしないから」
その言葉には小さく頷き、友雅はホッと息をついた。乱れた髪をそっと直してやる。
どうやら私は急ぎすぎたようだね・・・。
俯いたままのを優しく抱き寄せてみたが、その身体は強張ったままで、友雅の罪悪感をいっそう刺激する。
「・・・・・・」
ゆっくりと背中を撫でてやると、次第にの身体の強張りがとれてきたようだ。泣かせたいわけではないのにと、友雅は苦笑いするしかなかった。
何度も恋をして、もう慣れてしまっていたと思っていたのに・・・。
恋を知ったばかりの若者のように、自分の心を制御できずにいる。とうに忘れてしまったと思っていた情熱が自分の胸に溢れていることを、友雅は認めずにはいられなかった。
「落ち着いたかい・・・?」
「はい・・・」
「手荒な真似をしてすまない。どうか許しておくれ」
友雅の言葉に、は小さく首を横に振った。
「いいえ、わたくしが悪いのですわ・・・。
友雅様にご心配をおかけしたのですもの」
優しい微笑を浮かべたを、友雅は堪えきれずに抱き寄せた。
「あなたは優しすぎるね・・・」
その優しさに心惹かれているのに、時折その優しさが残酷にも思える。
友雅は深いため息をつき、赤くなってしまったの細い手首にそっとくちびるを寄せた。
――くちびるが触れようとした、その瞬間。
「何をなさっておいでですの、友雅殿っ!!」
「おや」
「え?」
そこには真っ赤な顔をして仁王立ちになった少女の姿があった。
「ふ、藤姫様っ?!」
「お目覚めになられたようだね」
友雅は余裕で応対しているが、のほうはそうはいかない。顔が真っ赤になって、どうしていいかわからない。
「をお離しください、友雅殿っ!」
藤姫はふたりの間に割ってはいると、友雅をぐいぐいと押しのけようとする。
「ふ、藤姫様・・・!」
「まったく!藤壺のお姉さまのおっしゃるとおりでしたわ!
には、わたくしとお姉さまでよい婿君を見つけると決めておりますの。
ですから、友雅殿は余計な手出しをなさらないでくださいませ」
藤姫が一気にまくしたてるのを、は呆然として見ていた。まだ十歳の子供だというのに、まるで母親のようではないか。一方の友雅はクスクスと面白そうに見ている。
「はあちらの部屋へ下がっていなさい」
「で、でも、藤姫様・・・!」
むぅと口を尖らせた少女の剣幕に押され、言い返すこともできず、は隣の部屋に下がることにした。
「そ、それでは失礼いたします・・・」
「おや、行ってしまわれるのかい?」
名残惜しい様子で、は何度も振り返りながら去っていった。それを見つめる友雅の切なげな視線を、藤姫は意外なものを見るような目で見ていた。
「友雅殿、をからかわれるのはお止め下さいませ。
あの娘はこのようなことには慣れていないのですから」
「ふふっ、まるで藤姫が殿の母君のようだね」
「友雅殿・・・っ!」
からかうような笑みを浮かべた友雅はいつもの友雅で、先ほどのを見つめていた切なげな表情は見間違いだったのだろうかと、藤姫は心のうちで首をかしげるのだった。
薫りだけを残して消えた愛しいひとよ、あなたにも私の薫りがうつっているのだろうか・・・?
もしそうなら――あなたも私のことを思い出してくれるかい?
あかなくに まだきも月の 隠るるか 山の端逃げて 入れずもあらなむ
(もっと見ていたいのに、早くも月が隠れてしまうのか。
山の稜線が逃げて、月が隠れられないようにしてほしいものだ)
【あとがき】
ネオロマ企画投稿作品。
読み切り(短編)が投稿の基本なのですが、管理人自らそれを無視・・・(汗)
ごく稀に創作のご感想を頂くことがあるのですが、『恋風』の友雅さんが
人気ですね(笑)
恋の歌ではないのですが、最後の和歌は在原業平の作です。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年9月23日