胸の痛み
結局、はしばしの間、左大臣邸で藤姫に仕えることになった。としては、内裏でも左大臣邸でも変わりはないのだが、まだ幼さの残る藤姫が気がかりだったのでに否やはなかった。
ところが、当の藤姫はに『龍神の神子様に仕えてほしい』と言ったのだった。
「神子様、こちらのお菓子はいかがですか?」
「あ、おいしそう〜!」
菓子を口に放り込んだあかねは満足そうな笑みを浮かべた。それを見て、も笑みを浮かべた。
最初は『京を救うべく龍神から遣わされた神子』と聞いて、そのような方のお傍近くお仕えするのが自分のような者でよいのだろうかとは悩んだものだったが、今ではそれが杞憂だったとわかる。
緊張しながら挨拶をしたに『龍神の神子』はにっこりと愛らしく微笑んだのだった。
「お気に召しましたか?」
「はい!とってもおいしいです!」
「たくさんございますから、後ほど天真殿と詩紋殿にも届けさせましょう」
聞くところによると、神子は『怨霊退治』に出掛けているらしかった。この京の都に怨霊が出て、人々を苦しめていることはも聞き及んでいる。恐ろしい怨霊と対峙するなどには考えられないことだが、この少女はそれをやってのけているそうだ。
どこにでも居そうな愛らしい少女だというのに・・・。
あどけなさの残る少女の双肩に京の未来がかかっているのだと思うと、不憫な気持ちにさえなる。『物忌み』で邸にいるときくらいは寛いだ気分にさせてやりたくて、藤姫に頼まれた以上には心を砕いていた。
「ありがとうございます。
さんも食べませんか?」
「・・・実はわたくし、先ほどこっそりつまみ食いをしてしまったのです」
他の女房達に聞こえないように、内緒話でもするように小さな声で言うと、あかねはクスクスと笑った。
物忌みの日は、神子は『八葉』とともに過ごすものらしい。があかねに絵物語を見せてやっているところに藤原鷹通はやってきたのだった。
「おはようございます、神子殿」
「おはようございます、鷹通さん。
ごめんなさい、今日は物忌みで出掛けられないんですけど・・・」
「ええ、わかっていますよ。
たまには邸でのんびりするのもよいでしょう」
藤原鷹通は穏やかで優しげな雰囲気の青年だ。邸の女房達には密かに人気がある。
「殿に絵物語を読んでもらっていたのですか?」
「ええ、そうなんです。あたし、文字はあんまり読めないので、
さんに教えてもらおうかな〜って」
「それはよいですね」
ふたりの見ていた巻物を見ると、さすがは左大臣家といったところか、非常に素晴らしいものだった。絵も文字も、一流の職人の手によるものだろう。鷹通がついつい熱心に見入っていると、クスクス笑う声が聞こえてきた。
「申し訳ありません、つい夢中に・・・」
「いえ、よろしいのですよ。素晴らしい絵巻物でございますもの」
ふふっと微笑んだに、鷹通は一瞬胸がドキリと高鳴った。
――美しいひとだ。
鷹通は華やかな女房達が苦手だった。だから、左大臣邸を訪れたときも、なるべく彼女達には近づかないようにしていた。
けれど、は穏やかな雰囲気の持ち主で、一緒に居て落ち着いた気持ちになれるのだ。それはあかねや藤姫も同じようで、のそばでは寛いだのびのびとした表情になる。
は宮家の血を引いていると聞くが、それを鼻にかけたり、驕ったりしているところが全くなかった。外見が美しいひとは大勢いるけれど、心延え(こころばえ)まで美しいひとはそういない。知り合って間もないあかねがあのように懐いていることからもよくわかる。
「それでは手習いを始めましょうか」
「ハイ!」
と鷹通が教師役で、あかねが生徒だ。あかねは筆の持ち方からに教えてもらい、真剣な表情で机に向かっている。の書いたお手本を一生懸命真似ながら、あかねは一文字一文字丁寧に書いていく。
「うわぁ〜、全然ダメだぁ〜」
「そのようなことはございませんわ、神子様。
鷹通様もそうお思いでしょう?」
「ええ、そうですよ、神子殿。初めてにしてはとてもお上手ですよ」
「本当ですか、鷹通さん?」
三人がワイワイ言いながら手習いをしているところへ、橘友雅が遅れてやってきた。
「あ、友雅さん!これ見てください!」
「なんだい、神子殿?」
あかねが意気揚々と差し出したのは、なんとも判読しがたい文字が書かれた和紙だった。
「・・・もしかして、神子殿が書いたのかい?」
「そうです、さんに教えてもらって」
友雅はクスリと笑って、あかねの頭を撫でた。
「頑張っているのだね、神子殿。けれど、無理をしてはいけないよ。
『物忌み』の日くらい、のんびりしてはどうかな?」
「ハーイ」
その時、控えめだが楽しげな笑い声が聞こえて、友雅がそちらに目をやると、鷹通とがひとつの絵巻物を覗き込んでいるところだった。穏やかな性質の者同士、気が合うのだろう。少し離れたところから見ている友雅の目には、ふたりは仲睦まじい恋人同士のように映った。
ふいに自分の胸に湧き上がったどす黒い感情に友雅は驚き、信じられぬといったように胸元を押さえた。
『恋とは苦くて甘いもの』――いつかそうに告げた自分は、それを嫌というほど知っていたはずなのに、このようにあらためて思い知らされるとは・・・。
「友雅さん・・・?どうかしました?」
あかねが心配そうにこちらを見ていた。先ほどからずっと押し黙ったまま胸元を押さえていたので、体調が優れないのかと思ったらしい。
「いや、なんでもないよ、神子殿。
昨夜は宿直だったのでね、すこし眠いだけだよ」
「そうですか?だったらいいんですけど・・・」
心配そうな瞳でこちらを見ていると目が合う。友雅は口元に笑みを浮かべて答えた。
「すこし外の空気に当たってくることにしよう。目が覚めるかもしれないからね。
鷹通、神子殿のお相手は頼んだよ」
「大丈夫ですか、友雅殿?このところ、公務のほうもお忙しそうですが」
「夏の暑さがすこし堪えたようだ。今日は私も休養させてもらうことにするよ」
友雅はそう言いおいて、部屋を出た。
誰かに話しかけられるのがうっとおしくて、友雅は人気のない釣殿へとやってきた。釣殿というのは、庭園の池にはりだして作られた建物で、夏の暑さをしのぐための場所である。
柱にもたれかかるようにして腰を下ろした友雅は、風に揺れる水面に目をやった。
風を受けて小波がたつ水面は、まるで我が心のようだと思った。凪いだ水面のような心のはずだったのに――良くいえばそうかもしれないが、実のところ、何事にも心を揺り動かされることがなかったといったほうが正しいかもしれない。
それがと鷹通の楽しげな様子を見ただけで、このように心乱され・・・。
誰かを心から愛したい――ずっとそう願ってきたのに、いざそうなってみるとこのように苦しいものだとは。
友雅は苦笑いするしかなかった。
ふいに人の気配がした。誰か、女房でもやってきたのかもしれない。
今は誰とも話したくない。そう思った友雅は瞳を閉じ、眠ったふりをすることにした。眠る友雅を起こしてまで話しかけてくるような女房はいないだろうと思ったからだ。
カサリ、と衣擦れの音がした。どんどん気配が近づいてくる。
「・・・・・・」
その人物は友雅が眠っていることに気づき、戸惑っているようだった。このまま立ち去ってくれればよいのにと思っていると、友雅の鼻先を慕わしい薫りがくすぐった。
ゆっくりと目を開けた友雅の前にいたのは、心配そうな面持ちのだった。
「申し訳ございません、起こしてしまいましたか?」
「・・・いや。目を閉じて休んでいただけだよ。風が冷たくて心地よかったものでね」
「さようでございますか」
水面を渡ってきた風はひんやりとしていて、涼やかな空気を運んでくれる。
「どこかお加減でも・・・?」
友雅が苦い顔をしていたからだろうか、が心配そうに尋ねてくる。
「すこし疲れているけれど、大丈夫だ。心配には及ばない」
さきほどの苛立ちが抜けきらないようで、ついつい冷たい口調になってしまう。しかし、はそれを体調が優れないせいだと勘違いしたらしい。
「ちょっと失礼いたします」
の白い手がスッと伸びてきたかと思うと、友雅の前髪をハラリとかきあげ、コツンと額がぶつかった。
「!」
「・・・お熱はないようですわね」
吐息がかかりそうなほどの至近距離で、閉じられた瞳を縁取る長い睫が揺れていた。近づいてきたそれが離れていくのを、友雅はただただ見つめることしかできなかった。
「薬師さまにお願いして、なにか薬湯でもご用意いたしましょうか?」
「・・・・・・」
驚いた表情でこちらを見ている友雅に気づいたは一瞬首をかしげたが、すぐに自分が何をしたかに思い至ったらしい。
「も、申し訳ございません・・・っ!」
先ほどまで白かった頬が桜色に染まっていく。
「藤姫様のお熱を測るときはいつもこうしていたもので・・・」
「いや、私を心配してくれたのだろう?ありがとう」
友雅がクスリと笑いながら答えると、はますます赤くなった。
「でも、本当にどこかお加減が悪いのでは・・・?」
「そう見えるかい?」
「はい・・・。なんだかいつもとご様子が違うような気がして」
そう、いつもの友雅ならばゆったりとした微笑を浮かべ、穏やかな表情であかねたちと物忌みの時間を過ごしているというのに、今日の友雅はどこか違う。うまく説明ができないのだが、どこか苦しげな表情がチラチラと垣間見えるような気がするのだ。
「ふぅん・・・」
「?」
が小首を傾げると、友雅はどこか満足そうな笑みを口元に浮かべた。
「あなたがそれほど私のことを気にかけてくださっているとはね。
それは、私のことばかり見つめていたということかな?」
「そ、そのようなことはございませんわ」
慌てて否定したが、赤く染まった頬は隠せない。友雅は楽しげにククッと笑うと、何かよい事を思いついたとでもいうように扇をパチッと鳴らした。
「――では、私の休息にしばし付き合ってもらうことにしようか」
「え・・・?」
と思わず聞き返しただったのだが、友雅はそれに気づかぬフリをしてゴロリと横になった。もちろん、頭はの膝の上にのせて、だ。
「と、友雅様!?」
「・・・頭の上で大きな声を出さないでおくれ」
「で、でも・・・!」
驚いたは思わず立ち上がりそうになったのだが、そうすると膝の上にのった友雅の頭がずり落ちてしまう。は立ち上がるに立ち上がれず、その場に座っているしかない。
「ああ、いい風だ」
水面を渡ってくる風はひやりと冷たくて、夏の名残の暑さを吹き飛ばしてくれるような気がした。
「・・・あちらが気になるのかい?」
友雅に膝枕をして、というよりさせられているはどうにも落ち着かない様子だった。
「いえ・・・あちらは鷹通様にお願いしてまいりましたし、
他の女房も控えておりますから」
「では、どうしてそのように落ち着きがないのかな?
あなたもこの涼風を楽しんでもバチは当たらないと思うけれど」
が熱心に役目を果たそうとしているのは友雅はよく知っていた。内裏でも、ここ左大臣邸でも、真心を込めて主に仕えている。真面目な性格がそうさせるのだろうが、時折は肩の力を抜いてもいいのではないかと友雅は思うのだった。
「ここは確かに涼しくて心地よいですが、お休みになられるのでしたら、
ちゃんとお部屋をご用意いたしますのに・・・」
一方のとしては、落ち着かないのは誰のせいだと言いたい気持ちであった。膝の上には寛いだ様子の友雅――常なら恥ずかしさも相まってそっけなくあしらっていたかもしれない。だが、今日の友雅はどこか苛ついているような雰囲気でどうにも気がかりなのだ。
「私はこちらで構わないよ。それに・・・」
「それに?」
「あなたを独り占めしているのが私だと、皆に知らせることができるしね」
「友雅様っ!」
「ふふっ、そのように頬をふくらませていると、せっかくの美しい顔(かんばせ)がもったいないよ」
友雅がスッと下から手を伸ばし、ふっくらとした頬を撫でると、は顔から火が出そうなほど真っ赤になった。
「もう・・・っ!我が家の猫と同じくらい困った御方ですわね、友雅様は」
「猫?」
「実家で猫を飼っているのです。わたくしが忙しい時に限って膝の上にのってきて、
甘えてくるのですわ。そして、わたくしが遊んであげようと思うときには、
プイとそっぽを向いて、どこかへ行ってしまうのです」
「では、私は殿を困らせる猫と同じかい?」
そうでございます、とやや拗ねたような口調でが答えると、友雅は楽しげにクスクスと笑った。
「けれど、あなたはその猫を可愛がっているのだろう?」
「それはそうですけれど」
自分をからかってばかりの友雅にちょっとした仕返しがしたくて飼い猫の話などしてみたのだが、友雅は別に怒った風でもなく、反対にその喩えが気に入ったようだった。
友雅はの手を取り、自分の頬に押し当てた。
「っ?!」
白くて柔らかな手に頬ずりをする。驚いたは慌てて手をひっこめようとしたのだが、友雅に手首を掴まれていてそれもままならない。
「おやおや、そのように驚かなくともよいだろう?
猫が飼い主に甘えているだけだよ」
友雅は目を閉じ、の手を自分の頬に押し当てていた。その静かな横顔に、は思わずひっこめようとしていた手を止めた。
「友雅様・・・?本当にどうかなさったのでは」
「・・・何も。何もないよ」
目を閉じたままでもの気遣わしげな様子がわかるのか、友雅はわざとからかうような口調でこう言った。
「猫が膝の上にのっているというのに、飼い主は撫でてくれないのかい?」
「まぁ・・・!」
恥ずかしがって自分にはできないだろうと友雅は思っているのだろうと、は妙な敵愾心を燃やした。恥ずかしくてたまらなかったが、もう一方の手で友雅の髪を撫でた。
「ふふっ、飼い猫という身分も悪くないね」
の小さな手が自分の髪を撫でている。ただそれだけのことなのに、友雅は先ほどまでの苛立ちが遠のいていくのを感じた。
私が欲しいのはこの優しい手――この手を独り占めしたいと願っているのだ。
友雅は、頬に押し当てたままのの手にぴったりと自分の手を重ねた。の小さな手は友雅の手にすっぽりと包まれてしまう。
「友雅様・・・?」
「・・・・・・」
重ねた手の位置はそのままに、友雅は顔の向きを変えた。
「っ!?」
友雅のくちびるがの細い指先に触れていた。チュッと軽い音が聞こえたかと思うと、今度はてのひらにくちびるが押し当てられていた。
「な、何を?!」
「何をって、飼い主にじゃれているだけだよ」
は恥ずかしさのあまり逃げ出したくなったが、友雅に膝枕をしているので逃げ出すこともできない。
「本当に・・・だね・・・」
「はい?何かおっしゃいました?」
「なんだか本当に眠くなってきたよ」
友雅はそう言うと小さなあくびをもらした。
「え?」
「猫は睡獣(ねむりけもの:よく寝る動物のこと)と言うだろう?
誰か呼びにきたら起こしておくれ」
「友雅様?!」
の慌てた声などどこ吹く風、友雅は小さな寝息を立てはじめた。
「・・・本当に困った御方」
は小さな声で呟くと、穏やかなその寝顔にホッとため息をつき、友雅の髪を撫で続けるのであった。
――本当に『恋』とは厄介なもの。
てのひらに触れた友雅のくちびるが震えていたことをは知らない。
【あとがき】
自分でもなに書いてるんだろうな〜と思いつつアップ(笑)
疲れてるんだねと、生温い目で見守ってやってください(汗)
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2007年10月5日