あいのうた。 前編
「まぁ、なんと見事な・・・」
美しい八重桜を目の前にして、
は感嘆の声をあげた。
「そうでしょう?わざわざ奈良から届けてくださったのですよ」
小侍従はまるで自分が届けさせたかのように誇らしく言った。
大ぶりの枝に零れんばかりに可憐な花が咲いている。藤壺中宮様へと奈良の僧都が届けてくれたのだ。
「内裏の桜はもう散ってしまいましたから、中宮様もお喜びになるでしょう」
八重桜というのは、他の桜がすべて咲き終わり散ってしまってから咲く、遅咲きの桜である。蕾の部分は濃い紅色をしているが、花が開いた部分は白に近い淡い紅色になり、非常に可憐な風情である。
「それでは、さっそく中宮様に・・・」
「ええ、そうなのですけれど」
先ほどまでの勢いはどこへやら、口ごもってしまった小侍従には首をかしげた。
は内裏へ――藤壺へと――戻っていた。先日歌会があり、藤壺中宮に内裏に呼び戻されたのだった。
としては仕える先が左大臣邸でも内裏でも構わないのだが、内裏では始終気を張っていなければならず、気疲れするというのが本音だった。一介の女房である自分でさえそうなのだから、中宮などという御位につかれた女御の気苦労はいかばかりか・・・。それを考えると、少しでも気がまぎれるよう藤壺中宮のために何かしてさしあげたいとは思うのだった。
だから、奈良の僧都から献上された八重桜も少しでも早く中宮のお目にかけたいと思ったのだが。
「どうかなさいましたの、小侍従殿?」
「それが・・・」
小侍従が言うには、桜を中宮に手渡すときには歌を添えなければならないというのだ。
「わたくし、もともと歌は苦手ですし、今日は主上も左大臣様も
お見えになっておられるし・・・。
そんなところで歌を披露するなんて恐れ多くて」
そうなのだ。今日はたまたま主上と、藤壺中宮の父である左大臣、そのほか取巻きの公達たちが大勢藤壺を訪れているのだ。
「そうでしたわね・・・」
藤壺中宮だけならまだしも、主上に左大臣までいらっしゃるのだ。その御前で歌を披露するなど、考えただけで憂鬱になる。
「かといって、中宮様に八重桜を差し上げないわけには参りませんし」
小侍従とは顔を見合わせ、ふたりしてため息をついた。小侍従は古参の女房だが、おっとりとした大人しい性格の女性で、そもそも人前でなにかをするのは苦手だった。一方のは、藤壺中宮には可愛がっていただいているが新参の女房で、そのような場で歌を披露するなど荷が重過ぎる。
「あら、どうなさったの?中宮様がお待ちかねよ」
突然華やかな声音が聞こえて、小侍従とはぱっと顔をあげた。
「式部殿!」
現れたのは式部と呼ばれる女房だった。華やかで美しい才女であり、藤壺中宮の覚えもめでたい。瞬間、の頭に浮かんだのは、藤壺中宮へ桜を渡す役目を式部に引き受けてもらうことだった。
「式部殿、お願いがあるのですが・・・。
この桜を中宮様へ献上していただけませんか?」
「あら」
小侍従とのすがるような瞳に、式部はちょっと驚いたようだった。
「わたくしたちではそのような大役は・・・」
「その点、式部殿でしたら」
「ふぅん・・・」
式部も、中宮に桜を渡す折には歌を添えねばならぬことを知っていた。それに今日は主上と左大臣、そして公達たちも大勢藤壺を訪れているのだ。ふたりが緊張するのも無理はないと式部は思った。
「わかりましたわ。ついていらっしゃいな、」
「はい」
この年若い新参の女房を式部は結構気に入っていた。若い女房が内裏にやってくると、その華やかさに浮かれて、肝心のお勤めがいい加減になる者が多い。その点、は浮かれることもなく真面目に勤めている。それだけでなく、心を込めて藤壺中宮にお仕えしていることも、式部は評価していた。
――けれど、もう少し華やかな内裏の生活を楽しんでもよいのではなくて?
後ろをついてくるに気づかれぬよう、式部は小さくクスリと笑みを浮かべた。
「ほう・・・なんと見事な」
「まぁ本当に」
奈良の僧都から献上された八重桜の一枝を見て、その場に居た人々が口々に誉めそやす。その花の美しさは内裏の美女達にも劣らない。
「今年の取り次ぎ役も式部なのかい?」
主上にそうお声をかけられた式部は艶やかに微笑んだ。
「今年のお取次ぎは、新しくいらした方にお願いしようかと」
「っ?!」
ハッと息を呑んだのは、式部に付き従ってきただ。取り次ぎ役は式部が引き受けてくれたものとてっきり思い込んでいたからだ。
「うむ、それもよいだろう。では、新参のに頼むことにしようか。
ただし、桜を渡す折には歌を詠まねばならぬぞ」
御簾のうちから、どこか楽しげな主上の声が聞こえてきた。
「主上、あまりを苛めないでくださいませ」
と主上の袖を引いたのは藤壺中宮だ。主上はクスクスとお笑いになる。
「おやおや、私は苛めているつもりなどないよ。
私とて、のことは気に入っているのだから」
「では、が華やいだ場所に自分から出ていくような娘でないことはご存知でしょうに」
主上のお答えに、藤壺中宮は愛らしいくちびるをすこし尖らせた。
「だからこそ、だよ。あの娘はもうすこし時めいてもよいのではないか」
華やかな美女というのではないが、にはひっそりと咲く百合の花のような清楚な美しさがある。なかなかに教養深いところもあるし、気立ても素直で優しく好感が持てる。
普通なら恋多き公達たちの口の端に上っていてもおかしくはないのだが、自分から表に出ていく性格ではないので、公達たちにはその存在をあまり知られていないのだ。
「この場ですばらしい歌を詠んだなら、あれに求婚する公達が大勢現れるだろう?
もしかしたら、あなたと妹姫の気に入るような求婚者が現れるかもしれないではないか」
主上の説明に、藤壺中宮はどこか腑に落ちないようだった。
「・・・主上は友雅殿のお味方ではなかったのですか?」
友雅がに心惹かれていることをご存知の主上はなにかというと友雅の味方をされるので、藤壺中宮はそれが気に入らないのであるが、どうやら今日は違うらしい。
「ふふっ、さてどうだろうね」
主上は楽しげな笑みを浮かべられた。そして、御簾の向こうで澄ました顔をして控えている友雅に眼をやった。
腹心の部下であり、そして長年の友人でもある友雅の恋の行方を主上は気にかけられていた。面白半分、といったところも否定はできないのだが。
同性である自分からみても魅力的であるとしか言いようのない友雅――彼は望むと望まざるにかかわらず、常に恋の勝利者であった。
そんな友雅が自ら得たいと望んだのがだった。
そばで見ている限り、も友雅を憎からず思っているように見受けられるのだが、どうにもふたりの仲が進展しているようには感じられないのだ。多少強引にでも手折ってしまえばよいものをと思うのは男の考え方なのかもしれないが、主上は歯がゆく思っておられたのだ。
――さて、どうする、友雅?恋敵が大勢現れたら、そのように澄ました顔のままではおられまい。
主上は扇の陰で笑みを浮かべた。
一座の視線がに集まり、緊張と恥ずかしさで顔が赤くなってくる。
「し、式部殿・・・」
藤壺中宮はもちろんのこと、主上に左大臣、それに主だった公達たちが勢ぞろいしているのだ。その前でへたな歌を詠むわけになどいかない。もし自分が凡歌を詠んだなら、自分の主人である藤壺中宮や、ひいては左大臣の名まで辱めることになってしまうのだ。
あまりの大役に泣きたいような気になってくる。助けを求めるように式部を見やると、を安心させるかのように式部は優しい微笑を浮かべていた。
「大丈夫よ、あなたなら。思い切ってやってごらんなさい」
「は、はい・・・」
式部の励ましにそう答えたものの、頭の中が真っ白になって、なんの句も浮かんでこない。
どうしよう・・・!?
は緊張のあまり、関節が白くなるほどギュッと手を握り締めた。心臓が恐ろしいほどの速さで脈打っている。
――そのとき、ふと視線を感じた。
「・・・!」
顔を上げると、友雅がこちらを見つめていた。慌てふためいているとは違い、友雅はゆったりと寛いだ様子だ。彼ほど華やかな人間であれば、このような場にも慣れているのだろう。
友雅は穏やかな微笑を浮かべ、ゆっくりとくちびるを動かした。
『あなたなら大丈夫だよ』
たぶんそれはにしかわからなかっただろう。微かなくちびるの動きだけだったが、には友雅の言葉がきちんと伝わっていた。
は、なぜだかすっと心が落ち着いていくのを感じた。
「いにしへの ならのみやこの やへざくら
けふここのへに にほひぬるかな」
(その昔、奈良の古き都で咲き誇っていた八重桜
それが今日、九重の宮中でみごとに美しく咲いていますよ)
緊張ですこし声が震えていたかもしれない。けれど、その凛として澄んだ声はよく通った。
が歌を詠み終わったあと、座が静まり返り、は青ざめたのだが、一瞬ののちにどっと歓声に包まれた。
「まこと見事な・・・」
「本当に。打てば響く才気というのはこういうことをいうのでしょうね」
人々は感嘆の声をもらし、その歌を真似してみる者がいたり、誰かに話して聞かせようと紙に書き留めるものもいた。
よかった・・・。なんとかうまくいったみたい。
はホッと胸をなでおろし、深いため息をついた。
「やればできると言ったでしょう?」
コソリと耳元で式部が囁く。式部は美しい顔に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「式部殿・・・心臓に悪うございますわ」
「あなたはもっと自分に自信をお持ちなさいよ」
は肩をすくめてみせ、の歌を口々に誉めそやす人々に目をやった。
主上と藤壺中宮は御簾の内にいらっしゃるのでわからないが、左大臣は満足げな顔をしていた。才気ある女房をそろえるというのも権勢の表れなのだ。
が友雅に目を向けると、友雅はに向かって小さく頷いた。
さきほど友雅が自分を力づけるように微笑んでくれなかったら、きっと自分は緊張と重圧に負けてしまって、歌を詠むことなどできなかっただろう。は、自分がどれだけ友雅を頼りに思っているのか改めて感じたのだった。
「すばらしい歌だったよ、」
「ありがとうございます」
は主上直々にお褒めの言葉と、桜襲(さくらがさね)の御衣(おんぞ)を賜り、恐縮すること至極だった。
「では、誰かに返歌を詠んでもらうことにしようか」
主上はそうおっしゃると、返歌を詠むようにと友雅に命令なさる。友雅は一瞬眉をあげたが、落ち着いた朗々とした声で返歌を詠みあげた。
「ここのへに にほふをみれば さくらがり
かさねてきたる はるかとぞおもふ」
(宮中で艶やかに咲き誇る桜を見れば、まるで春が二度きたようだ)
ほぅと人々から感嘆の声がもれる。
「さすがは風流人と名高い友雅殿じゃ」
「左様でございますわね」
一座の人々は友雅の返歌を褒め、主上もお喜びになり、友雅も桜襲(さくらがさね)の御衣(おんぞ)を賜った。
「では、これから皆で八重桜の美しさを愛でようではないか」
主上のそのお言葉をきっかけに、藤壺では盛大な宴が始まった。女房達は酒や肴を運んだりとにわかに慌しくなる。
「、しばらくあちらで休んできたらどう?」
「式部殿・・・」
心なしか疲れた様子のに、式部はにっこりと微笑んだ。
「御酒も皆さまに行き渡ったようだし、しばらくの間なら大丈夫よ」
「ですが・・・」
ためらいがちなに、式部は悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言った。
「ゆっくり休めるのは今のうちだけかもしれなくてよ?」
「・・・?」
首を傾げるに、式部はますます楽しそうな笑みを浮かべた。華やかに美しい式部の微笑みは大輪の花のようだ。
「今日の歌で、あなたも『宮廷の華』の仲間入りよ。
明日からは貴公子たちの文が山ほど届くはず。のんびりしている暇などなくてよ」
式部の言葉に、はまさかと答えて笑った。
「わたくしのような者に文をくださる殿方などいらっしゃいませんわ」
「は変なところで頑固なのだから・・・。
まあいいわ。少し休んでいらっしゃいな」
手が足りなくなれば呼ぶからと式部に説得されるように言われ、は自分の房へと戻ることにした。
自分の房へと戻り、戸を閉めると、はへなへなとその場に崩れ落ちた。
「疲れた・・・」
無論肉体的には疲れてなどいない。しかし、精神的にはこれ以上ないというほどに疲れていた。なにしろ、主上と中宮をはじめ、左大臣やその他権力者達の前で歌を披露したのだ。
なんとかうまく乗り切ることができたと思うが、なんども同じ目には遭いたくない。
がハァ〜と深いため息をついていると、背後でククッと小さく笑う声が聞こえた。
「誰っ?!」
【あとがき】
自分でも驚くほど長くなってしまったので、前後編にわけてみました。
・・・友雅さんが登場しないじゃん(汗)
久しぶりなので、大目に見てやってください(笑)
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2008年1月11日