あいのうた。 後編
「友雅様・・・どうして?」
驚いて振り返ると、そこに居たのは友雅だった。どうやら宴を抜け出してきたらしい。
「先ほど御前で見事な和歌を披露した有能な女房殿とは思えない姿だね」
友雅は扇で口元を隠しながら、また小さくクスリと笑った。しどけない姿で座っていたは慌てて居住まいを正そうとしたが、友雅はそれを手で制した。
「どうかそのままで。私とあなたの間柄で気をつかわなくともよいだろう?」
「そのようなわけには・・・」
はそう言い、乱れた袿の裾を直した。
「ずいぶんとお疲れのようだね?」
「はい・・・」
はさきほどの歌の披露の経緯をかいつまんで話した。
「ふふ、式部殿がね・・・。君は知らなかったかもしれないが、
去年の取り次ぎ役は式部殿だったのだよ」
「まぁ、そうでしたの」
すると、は何か思い出したのか、小さくクスリと笑った。
「どうかしたのかい?」
「いえ、式部殿がおっしゃっていたことを思い出しまして。
明日からわたくし、休む暇もないそうですのよ」
「ん・・・?」
友雅が意味がわからずに首をかしげると、はまたクスクスと笑った。
「今日の歌を聞かれた公達から恋文が山ほど届くそうですわ、わたくしに」
「・・・」
はクスクス笑っていたが、友雅は笑うことができなかった。
「何の後見もないわたくしに恋文を送ってくださる殿方なんていらっしゃいませんのに」
由緒正しき宮家の血を引いているとはいえ、の実家は裕福ではない。この時代、出世を望むのなら、妻の実家の権勢が必要なのだ。
「けれど、あなた自身を望む男が現れるかもしれないよ?」
「そのような殿方がいらっしゃればよいのですけれど」
美咲は肩をすくめてみせた。できれば愛するひとの妻となり、穏やかな人生を送りたいと思っているが、いまの経済状態では夫となる人物を盛りたてていくことは難しい。
「――ここにいると言ったら?」
え、と聞き返す間もなく、腕を取られ、その逞しい胸へと抱き寄せられていた。
「と、友雅様っ?!」
「明日からはあなた宛の文がたくさん届くのだろうね・・・。
その中にはあなたが恋におちてもよいと思えるような男がいるかもしれない」
「わ、わたくしは・・・」
何も知らなかった自分に恋の苦しみを教えたのは友雅ではないかと、はくちびるを噛んだ。
「わたくしは恋などしたくありませんわ・・・」
「どうしてだい?」
「だって・・・恋など苦しいばかりですもの・・・」
は、友雅のそばにいる女人たちに嫉妬していた。友雅の心を惹きつける魅力的な女人たち――誰かを妬ましいなどと思ったことはなかったのに。
「――あなたは誰かに恋しているのかい?」
抱きしめられたままで友雅の表情は見えないが、その言葉にはドキリと心臓が飛び跳ねた。
「そ、それは・・・」
抱き寄せる腕をすこし緩めて、友雅はの顔を見つめた。そのまっすぐな視線に耐えられず、は思わず目をそらした。
友雅に恋している――そう告げる勇気は、残念ながらにはなかった。
華やかな噂の絶えない友雅、そして彼を取り巻く美しい女人達・・・。友雅は時折甘い言葉を囁いてくるけれど、それは恋に不慣れな自分の反応がめずらしいからだろうと、は思っていた。友雅の恋の相手は世慣れた女人ばかりで、自分とは違うからだ。友雅が自分に想いを寄せているなどと勘違いしてはいけない、とは自分自身にきつく言い聞かせていた。
「・・・・・・」
ふたりの間の沈黙に耐え切れず、が顔をあげると、友雅の表情が苦しげなものに変わっていた。
「友雅様・・・?」
「胸が苦しくてどうにかなってしまいそうだよ」
友雅は自嘲的な笑みを浮かべた。
数々の浮名を流してきた自分――自分はそうではなかったけれど、相手の女人達は嫉妬の涙を流していたのだろうか。
恋人だった彼女たちから『冷たい男だ』と言われ、自分でもそうだと思っていた。この心は氷のように冷えきっていて、喜びも悲しみも感じることなどない。あるのはただ過ぎてゆく日々だけなのだと。
それが今はどうだ。居るかどうかもはっきりしないの想い人に自分は嫉妬しているではないか。
恋愛沙汰には鈍いはそれとなく告げている自分の想いに気づかず、それを歯がゆく感じたことは多々あったけれど、に自分以外の異性の影を感じたことは一度もなかった。
「で、では薬師殿を・・・!」
は慌てて誰かを呼びにいこうとした。が、友雅の方が一瞬早く、の身体をさらに強く抱きしめた。
「っ?!」
息もできないほどの強い抱擁――友雅の焚き染めている薫物の香りとあいまって、くらくらとめまいがするような気がした。
「と、友雅様?いったいどうなさったのです?」
「・・・」
このまま強引に手折ってしまおうか・・・?
そんな危険な考えがチラリと脳裏を横切る。けれど、そんなことをしてを手に入れたとしても、自分は満足できないだろう。本当に自身が自分を愛してくれるのでなければ・・・。
を抱きしめたままでいると、不意に人の気配がした。抵抗らしい抵抗もできず、友雅に抱き寄せられるままになっていただったが、人の気配に慌ててその腕の檻から逃れようとする。
「・・・静かにしておいで。見られてしまうよ」
「きゃっ!?」
友雅はを抱き上げると、几帳の影へと隠れた。
「――殿?あら、入れ違いになってしまったのかしら?
中宮様がお呼びだというのに・・・」
現れたのは小侍従であった。藤壺中宮に命じられて、を迎えにきたらしい。
薄暗くて狭い几帳の影で、ふたりの身体はますます密着して、は自分の心臓の音が友雅に聞こえてしまうのではないかと思った。
「友雅様もどちらへいらっしゃったのやら・・・」
どうやら小侍従はと友雅のふたりを探しにきたらしい。
『私も探されているようだね』
こそりと耳元で囁くと、は焦ったように友雅をにらみつけた。
『シッ!見つかってしまいますわ』
『おや、私は見つかっても構わないけれど?』
しれっとして答える友雅をは軽く睨んだが、近すぎるふたりの距離の方が気になるし、小侍従に見つかったらと生きた心地がしない。
『このようなところを見られたら、誤解されてしまいますわ』
『私は別に構わないよ、あなたとなら?』
『・・・その誤解で傷つく御方がいらっしゃるでしょうに』
几帳の影で抱き合っているところなど見られたら、あっという間に友雅とが恋人同士だと噂になるだろう。そうすれば、友雅の恋人は傷つくかもしれないとは思ったのだった。
友雅の恋人に嫉妬はしても、傷つけてやりたいなどと思わないのがという娘であった。いまの関係を壊すのが怖くて、友雅への想いを素直に告げることのできない自分よりも、傷つくことを恐れずに恋の覇者となった女性を羨ましく思いつつ尊敬しているのだった。
『そのような方は誰もいないよ・・・今はね』
『え?』
目を丸くしているに友雅は苦笑するしかなかった。
カタンと音がしたので、几帳の隙間から覗いてみると、小侍従は部屋から出て行ったらしい。はホッとため息をついた。
友雅の腕が緩んだのをこれ幸いと、美咲は身体をひいて、友雅との距離を取ろうとした。
「と、友雅様もお戻りなさいませ。わたくしも後から参りますから」
この頬の赤みを消すにはしばしの時間が必要であった。それに、ふたり一緒に宴席に戻るのもためらわれた。
「どうして私に恋人がひとりも居なくなったのか、理由を尋ねてはくれないのかい?」
友雅の口調はをからかうようなものだったけれど、その瞳はどこか真剣な光を湛えているようにには思えた。
「・・・どうしてですの?」
「――私は見つけてしまったから」
「え?」
「たったひとり、恋人になって欲しいと思うひとを見つけてしまったからだよ」
「っ?!」
そう、たったひとりのひとを自分は見つけてしまったのだ。それは幸運なことなのかもしれない、と友雅は思う。
心から誰かを愛することも知らず、愛されても同じだけの愛を返すことのできない自分・・・。
この胸のうちは寂寥に満ち、飢餓感だけがあった。それがに出逢ってからどうだろうか。彼女の優しさに癒され、心にはあたたかいものが満ちている。そして同時に、爛れるような心の痛みも彼女は教えてくれた。
友雅のあたたかで優しい微笑みに、の鼓動は高鳴った。
いいえ、誤解してはだめ・・・。友雅様の想い人は決してわたくしではないわ。ああ、でも・・・。
友雅のその優しい瞳の光を見ていると、まるで自分が友雅に愛されているような心地がする。けれど、そうではないのだ。
その現実は氷の刃となって、の心に突き刺さる。じわりと涙が浮かんできて、思わずギュッと目を閉じたそのとき、扉の開く音がした。
「殿、いらっしゃらないの?」
「は、はいっ!」
反射的に返事をしてしまったは、友雅の腕をすり抜け、几帳の影から慌てて姿を現した。
「ああ、よかった。やっぱり入れ違いになっていたのね」
ずっとを探していたのだろう、小侍従はほっとした表情になった。
「申し訳ございません。ずっと探してくださっていたのですか?」
「藤壺中宮様がお呼びになっていらっしゃるのよ」
だから、ずっと探していたのだと小侍従は言った。
「申し訳ございません。すこし気分が優れなくて、几帳の影で
やすんでいたものですから」
「あら、大丈夫?そういえば頬が赤いわね。熱でもあるのではなくて?」
「い、いえ、大丈夫ですから。すぐに御前に参りますわ」
「そう。ではお願いしますね」
は、几帳の影の友雅が小侍従に見つからないかとヒヤヒヤしていた。もともと嘘をつくのは得意ではないのだ。
「はい、すぐに参りますので。小侍従殿は先にお戻りになっていてくださいませ」
小侍従が藤壺に戻っていく後ろ姿を見送って、はほぅと息を吐いた。
「――つれない御方だね。私ひとりを残していくとは」
「!」
いつのまにか友雅が隣に立っていた。さきほどまでその腕に抱き締められていたのかと思うと、恥ずかしくて顔も上げられない。
「おや、遅咲きの桜が献上されたのは藤壺だと思ったけれど、
こんなところにも遅咲きの桜が咲いているようだね」
友雅の手がすっと伸びてきて、の桜色に染まった頬にそっと触れ、顔を上げさせる。
「・・・・・・」
友雅の艶やかな微笑みにはぼうっとしてしまう。のその表情を見て、友雅はくちびるの端に満足げな笑みを浮かべた。
「藤壺中宮様がお呼びなのだろう?行かなくてもよいのかい?」
「あっ!」
ハッと我に返ったは慌てて踵を返す。
「わ、わたくし、藤壺に戻らなければ・・・」
「ああ、先に戻っておいで。私も後から行くから」
「はい!」
慌しくは藤壺へと戻って行った。友雅はその後姿を見送りながら、やれやれと小さくため息をついた。
「いったい、どこまで私の気持ちをわかっていてくれているのだろうね・・・?」
いつもの癖でパチンと扇を鳴らしたときに、ふっと甘い香りが漂った。
「・・・・・・」
ずっとを抱き締めていたせいで、その薫りが移ったのだろうと思われた。
彼女の残り香でさえ愛しく思えるとは・・・。
は良くも悪くも友雅の心を波立たせる存在だ。
けれど、出逢わなければよかったとは思わない。たとえ、ふたりの未来が重なっていないとしても、に出逢う運命を自分は何度でも選ぶのだろう。
友雅はふっと笑みを浮かべ、歌を口ずさんだ。
よのなかに たへてさくらの なかりせば
はるのこころは のどけからまし
(世の中に桜というものが一切なかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに)
【あとがき】
まずは歌の説明を。
「いにしへの ならのみやこの〜」は伊勢大輔(だいすけ!?いえいえ、いせのたゆうでございます・笑)が詠んだ歌です。そして「ここのへに にほふをみれば〜」は中宮彰子が返歌として詠んだものです。どちらも百人一首から引用しております。シチュエーション的にはまったく同じで、伊勢大輔が中宮彰子にに桜を献上するときに詠んだ歌になります。
最後の「よのなかに〜」は古今和歌集から在原業平の作になります。
ちなみにBGMは「うたかた」でございました。
いや〜、なんでこんなに長いんでしょうね!?久しぶりに書いたから?!(笑)
甘いんだか甘くないんだか、よくわからなくなっております(汗)
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2008年1月11日