背中合わせ




「・・・?」
「・・・・・・」
「聞いているの、?」
「え・・・?あ、は、はいっ」
「あなたの番ですよ」
碁石を手にした式部が怪訝そうにこちらを見ている。ハッと我に返ったは、慌てて次の手を置いた。
「どうしたの、?そのようにぼんやりとして」
「申し訳ございません・・・」
は藤壺中宮に仕える女房のひとりである。心根がまっすぐで優しく機転の利くを、先輩女房の式部は気に入っていた。藤壺中宮が弘徽殿へお出ましになっているため、手の空いた午後の時間、を相手に碁に興じていたのだった。
「残念だけれど、今日はあなたの待ち人はお見えにならないわよ」
「わ、わたくしは別に・・・!」
サッと頬に朱が上る。のその素直な反応に、式部は扇で口元を隠し、クスクスと笑った。
「友雅殿は今日は主上のお申し付けで宇治の方へ出掛けられているそうよ。
 お戻りになるのは夜遅くか、明日の朝になるでしょうね」
「ですから、わたくしは友雅様のことなどお待ちしておりませんから!」
「あら、そう?では、そういうことにしておいてさしあげるわ」
こうしてをからかいながらも、宮仕えにでているとはいえ世間知らずなの恋の相手が友雅ということを式部は密かに心配しているのだった。
そもそも、式部がの恋の相手を知ったのはほんの偶然に過ぎなかった。
藤壺中宮に奈良の僧都が八重桜を献上し、それを愛でる宴が開かれたのだが、その宴からと友雅が同時に姿を消したのだ。しばらくして戻ってきたの袿からは友雅の焚き染めていた香が微かに漂っていて、ふたりが一緒にいたということを証明していた。
これまでの友雅であれば、のような娘は相手にせず、もっと大人の世慣れた女人ばかりを恋の相手にしていた。けれど、いつからか友雅のを見つめる瞳が変わってきたような気がするのだ。
それは――甘く優しく、愛しいものを見つめる瞳だ。友雅のような男性から愛されるのは、女人にとっては最高の幸せかもしれない。
でも、と式部は思う。それが短い時間しか続かないのであればどうだろうか。
美しく華やかな女人達と友雅の恋の噂は式部も耳にしていた。そして、いったいどのような女人ならば友雅の心を射止めるのかとも。相手が宮廷の華ともてはやされるような女人であっても、友雅との仲は三月も続かないのだ。
「ふぅ・・・わたくしが悩んでも仕方がないのに」
「式部殿?」
が小首を傾げてこちらを見ている。とさほど年は変わらないのに、すっかり姉のような気分になっている自分がすこし可笑しい。この娘を気にかける藤壺中宮のお気持ちがすこしわかったような気がした。
「なんでもないわ。では次はわたくしの番ね」
こうして、のんびりと碁を差したり、お菓子をつまんだり、おしゃべりに夢中になったりと、女主人の留守を女房達はそれぞれに楽しんでいた。
「――こちらにとおっしゃる方はいるかしら?」
あまり見かけたことのない女房が藤壺へやってきた。緋色の袿が少々派手に見えたが、勝気そうなその美貌にはよく似合っていた。
「はい・・・?わたくしですが」
この女房は自分を訪ねてきたようだが、には見覚えがなかった。戸惑いつつもそう答えると、その女人はじろりとを睨んできた。
「ふうん・・・あなたがねぇ・・・」
その値踏みするような尖った視線に、は不快感を感じ、微かに表情を曇らせた。
「失礼な方ね。まずは名乗られたらいかが?」
式部がをかばうように前にでると、その女人はいっそう視線をきつくして、を睨んできた。
「あら、そう?けれど、わたくしよりもそちらの方のほうが失礼なのではなくて?」
「なにをおっしゃっているのか意味がわからないのですけれど」
なにか只事ではない雰囲気に、咄嗟に式部を巻き込んではいけないと思ったは、自分からその女人の前に進み出た。
「・・・」
憎しみのこもった瞳で睨みつけられ、は一瞬怯んだ。その瞬間、パシッといっそ小気味よいとさえいえる音が響いた。
「っ?!」
まわりの女房たちから短い悲鳴があがる。一瞬なにが起こったのかわかなかったは、その悲鳴を聞いて、自分が頬を打たれたのだと気づいた。
「何を・・・!?」
あまりの出来事に呆然として動けなくなっているを、式部がかばうように前にでる。
「人の恋人を盗むほうがよっぽど酷いのではなくて?!」
恐ろしい形相でを睨みつけたその女房は、一度頬を打っただけでは足りないのか、式部を押しのけ、ふたたび手を上げた。
「っ!?」
咄嗟に逃げることもできず、はぎゅっと瞳をつぶることしかできなかった。
「――なにを騒いでいるのです、あなたたち?」
凛として澄んだ声に、皆がハッと我に返った。
「中宮様っ!」
いつのまに戻ってこられたのか、そこには藤壺中宮の姿があった。
「わたくしが留守にしている間になにを騒いでいるのです?」
いつもは子供っぽい振舞いの目立つ御方だけれど、そこにはやはり中宮たる威厳が漂っている。
「あなたはどなた?見かけない顔ですわね」
「あ、あの、わたくし・・・失礼いたしますっ」
藤壺中宮の険しい視線に怯んだのか、その女人はそそくさと藤壺中宮を去っていってしまった。
「いったいどうしたというのです?」
「なんでもございませんわ。何やらつまらぬ言いがかりをつけにこられたのです。
 どうぞ、お気になさらずに。あちらで御召し替えのお手伝いをいたしましょう 」
式部は何事もなかったかのように落ち着いて答えた。



藤壺中宮に詮索されてはまずいと思ったのか、式部はをこっそりと自室へ戻してくれた。
「痛い・・・」
思いきり打たれた頬がジンジンと熱を持って痛む。朋輩の小侍従が気を利かせて、濡れた布を持ってきてくれたので、それを頬に押し当てて冷やす。
小侍従はを心配してずっと傍についていると言ったのだが、は頼み込んで、なんとかひとりにしてもらった。
「・・・・・・」
涙が零れないのが自分でも不思議であった。突然の出来事に心がついていっていないだけなのかもしれないが。
『人の恋人を盗むほうがよっぽど酷いのではなくて?!』
さきほどの女房の声が頭の中に響く。考えたくはなかったが、どうしても考えてしまう。
怒りでその表情は歪んでいたけれど、普段であれば、とても華やかで美しい女人なのだろうということが見てとれた。勝気そうな性格も、その美貌に良く似合っているような気がした。
恋文などももらうことはあったが、には親しく文のやり取りをしているような殿方は友雅しかおらず、そのような誤解を受けるとすれば友雅以外に考えられなかった。おそらく、あの女人は友雅から別れを告げられ、それをのせいだと考えたのだろうと思われた。

『たったひとり、恋人になって欲しいと思うひとを見つけてしまったからだよ』

友雅はそう言っていなかっただろうか?だから、いまは誰も恋人がいないのだと。
たったひとりを見つけてしまったから、他の誰かは――もういらない。

あのようにお美しい方でも、友雅様の御心をつなぎとめることはできないの・・・?

ぽろぽろと真珠のような涙が零れた。頬を打たれたときでも涙はでなかったのに、友雅のことを考えると自然と涙があふれてきた。
ただひとりの恋人として友雅に愛されたい――自分がそう強く願っていたことに、はいまさらながら気づいた。いつのまにこんなに友雅に心奪われていたのだろうかと思う。
もしも自分がひとときの間でも友雅の恋人になれたとして、それを失ってしまったらどうなるのだろう?
自分もあの女人のように取り乱し、友雅の新しい恋人に嫉妬し、傷つけてやりたいと思ってしまうのか。そんな自分を想像して、は恐ろしい心地がした。
ひとの心には影の部分が誰にでもある。けれど、はそれを否定したがった。自分の心の暗い面を見たくはなかった。
醜くどす黒い嫉妬という感情――それをどこかにうち捨ててしまいたかった。



泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていたらしい。誰かが格子を叩く音で、は目を覚ました。
「私だよ。ここを開けておくれ」
「っ!?」
それは紛れもなく友雅の声だった。は一瞬身を固くした。
「そこに居ることはわかっているのだよ?だから、ここを開けておくれ」
「・・・」
いったいどれくらい時間が経ったのか陽はすっかり暮れてしまったようで、室内は薄暗かった。息を潜めてじっとしていれば友雅が諦めて帰ってくれるのではないかと思ったが、友雅に帰る様子はない。
殿、ここを開けなさい。開けないと強引にでも押し入ることになる」
「・・・」
はのろのろと立ち上がり、格子を開けた。
殿・・・」
気遣わしげな友雅の様子に心が揺れたが、は泣き腫らした顔を見られたくなくて、友雅に背を向けて部屋の奥へと引っ込んだ。
「なにか御用ですの?わたくし、今日は気分がすぐれなくて休んでおりましたの。
 急ぎの御用でなければ、日を改めて・・・」
友雅は無言のまま、燈台に火を灯した。暗かった部屋に光が戻り、は慌てて扇で顔を隠した。
「友雅様、わたくし、本当に今日は・・・」
無言のままの友雅に焦れたはさらに言葉をつないでみたが、友雅からの応えはないままであった。友雅はを見詰め、ようやく言葉を発した。
「・・・すまなかった」
「友雅様・・・?」
友雅は、背を向けたままのを後ろからそっと抱き締めた。びくりと小さな身体が震える。
――後悔などしたことはなかった。
求められれば応じる、ただそれだけだった。それ以上でも、それ以下でもない。この胸のうちに巣くう空虚をすこしでも埋めたかったのかもしれない。誰かの人肌のぬくもりに触れたかっただけかもしれない。求められることで、自分という存在を確認したかったのかもしれない。
「私のせいで、あなたに辛い思いをさせてしまった・・・」
「・・・」
宇治から戻り、帝への奏上を済ませた友雅を呼び止めたのは険しい表情の式部だった。そして、事のあらましを聞いた友雅はまっすぐにのもとを訪れたのであった。
「あの方はなにか誤解をなさっていたのでしょう・・・。
 大したことではございませんわ」
ぽつりぽつりと話すの声は微かに震えていた。あのような暴力――悪意といってもいいかもしれない――とは無縁ののことだ、よほど恐ろしかったに違いない。
友雅は痛いほどに後悔していた。
『怖かった』『恐ろしかった』『痛かった』
なんでもよいから、に自分を責める言葉を言って欲しかった。そうすれば、この苦しみが少しは安らぐかもしれないのに。
「どうしてあなたは・・・」
苦しげな声で呟くと、友雅はさらにの身体を強く抱き締めようとした。これまで友雅に抱き寄せられるままのだったが、今度はそれに強く抗った。
「どうかもうお離しくださいませ・・・」
消え入りそうな声でが訴えるが、友雅はそれを聞き入れない。もし聞き入れたら、このままは自分の手が届かないところに行ってしまうような気がしたのだ。
「――離さない」
「友雅様・・・」
困り果てたような声をもらし、なおもは抗おうとするが、友雅はそれを許さない。
「あれは『誤解』ではなかった、と言ったら?」
「え・・・?」
友雅は短いため息をつき、頭を振った。
「いや、そのような言い方はよそう。私は彼女に別れを告げたのだよ。
 心から愛するひとを見つけてしまったから・・・と」
このようなときに告げるべきではないかもしれない。恋に不慣れなの心がもっと解けてから告げようと思っていた。けれど、このように傷つき弱っているを見て、溢れる想いを押さえることができなくなったのだ。
「――私が愛しているのはあなただ」
の身体がビクリと震えた。
自分を見つめる友雅の瞳のなかに、甘く囁きかける言葉の端々に、もしかしたらという期待と恐れがあった。そして、それは現実のものとなってしまった。
「お願いです・・・どうかお離しくださいませ・・・」
殿・・・」
を背後から抱き締めているせいで、その表情を伺うことはできない。けれど、いまにも消え入りそうな弱々しい声に友雅はその腕を緩めた。
「・・・お気持ちは・・・嬉しく思いますけれど・・・。
 どうか、わたくしのことは・・・お捨て置きくださいませ・・・」
「・・・」
の小さな身体が震えていた。優しく抱き締めて、もう大丈夫だと、安心してよいのだと囁いてやりたかった。
けれど――それは自分の役目ではなかった。
「・・・あなたのお気持ちはわかったよ」
友雅は目を閉じ、深いため息をついた。
「これまですまなかったね。つまらぬ事であなたを煩わせてしまった」
「・・・」
「どうか許してほしい」
友雅はそう言うと、静かに立ち上がった。その気配に、がパッと振り返った。桧扇で顔を隠したままだったが、隙間から覗く泣き腫らした瞳が痛々しかった。
「友雅様・・・」
いまにも泣き出してしまいそうなに、友雅は常と変わらぬ優しい笑みを浮かべて見せ、乱れた黒髪をそっと梳いてやった。
「ゆっくり休みなさい」
「・・・」
友雅の気配がゆっくりと遠ざかっていく――あとに残るのは微かな侍従の薫りだけ。
「くっ・・・」
堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出す。ぽたりぽたりと涙の雫が落ちていく。

――友雅様を傷つけてしまった。

いつでも優しくあたたかなまなざしで自分を見つめてくれていた友雅だったのに、さきほどの友雅の瞳は苦渋に満ちていた。深い後悔の念がを襲う。

でも、わたくしには勇気も自信も足りないのです・・・。

友雅を愛していく勇気も、友雅に愛され続ける自信も、にはなかった。
甘い恋の果実を貪ってしまったら、その甘露を忘れられなくなるかもしれない――それが怖かった。
ならばいっそのこと、甘い恋などいらない。いつか失ってしまうのなら、欲しくはない。最初からなかったのだと思えばよいのだから。

この恋心は封印してしまおう。忘れてしまおう・・・。

はそう思った。そうすれば友雅のそばに居られる――友人として。
友雅が美しい女人と恋に落ちるのを見ることになるだろう。そして、その恋の終わりも見ることになるだろう。けれど、恋人たちに訪れた別離は、自分には訪れることはないのだ。なぜなら、自分はただの友人なのだから・・・。
これでよかったのだ。自分の選択は正しかったのだ。
――なのに、なぜこんなに心が痛むのだろうか・・・?


たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする

(わが命よ、絶えるなら絶えてしまえ。
  このまま生き長らえたら、この胸の秘めた想いを隠し切れなくなってしまうから)



滴り落ちる熱い涙を、は拭おうとはしなかった。




【あとがき】
『恋風』もはや11話となりました(驚)
いや〜、我ながらこんなに長く続くとは思っていませんでしたよ。
そして今回、暗めな展開で申し訳ない・・・(汗)友雅さん、フラれてるし!?
でもまあ、現実の『恋』も甘いばかりではありませんしね(言い訳?)
さて、この恋の行方はどうなるのでしょうか?待て、次号!(違)

最後の歌は式子内親王です。たまのを(玉の緒)というのは魂を身体につなぐ紐ということで
転じて命という意味になっています。すごく激しい恋の歌ですよね〜。
たった31文字のなかにこんな熱い想いを表現するなんてすごいなと思います。
百人一首のなかでも人気のある歌だそうです。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2008年2月10日