幸福論




月の美しい夜だった。
友雅はひとり端近にでて、美しい月を愛でつつ酒を飲んでいた。


「・・・少々、飲みすぎではございませんか?」
女房達は皆下がらせており、酒を運んできたのは随身の帯刀(たてわき)だった。帯刀は友雅の乳母の息子で、乳兄弟として育ったので友雅に遠慮がないのだ。
「そうかい?」
そう答えながら、友雅は盃を口元へと運んだ。ひやりと冷たい液体が喉元を過ぎたかと思うと、アルコールの熱さが体中に広がる。
「明日もご公務がおありでしょうに。二日酔いになっても俺は知りませんよ」
「やれやれ・・・いつからお前はそんなに口うるさくなったのだろうね」
友雅は苦笑を浮かべた。かしましい女房達は癇に障るかと思い下がらせてあったのだが、意外な伏兵がいたものだ。
「俺は昔からこうですよ」
帯刀はむっつりとした表情を浮かべたが、友雅の盃に新しい酒を注いだ。
「美しい月を愛でながら酒を飲むのもよいだろう?」
青白い月の光に照らされた友雅の横顔はどこか儚げに見え、帯刀は友雅になにかあったのだろうかと思った。が、賢明な帯刀はそれを口に出すことはしなかった。
「お前ももう下がりなさい」
「ですが・・・」
「早く行かなければ、六条の恋人が首を長くして待っているのではないのかい?」
「っ?!」
淡い月明かりの下でも帯刀がギョッとしているのわかり、友雅はクスリと笑った。帯刀は決まり悪そうに頭をかいた。
「・・・どうしてそう何もかもご存知なのですか、友雅様は」
「ふふっ、お前を見ていればすぐわかることだよ」
帯刀は以前同じ邸に仕える女房の衛門と恋人同士だったが、つまらぬケンカがもとで別れてしまったのだ。だが、男っぷりのいい帯刀はすでに新しい恋人を見つけていた。
「なかなかの美女らしいではないか」
「いや、それほどでも・・・」
「早く行っておやり。恋人を待つ時間は長く感じるものだよ」
友雅はそう言うと、また盃を空けた。友雅の静かな表情を見て、いよいよ何かあったのだろうと帯刀は思った。もしも自分が何かあったのかと尋ねても、おそらく友雅は別にと答えるだろう。それならば、何か友雅の気が紛れるようなことはないだろうかと帯刀は考えた。
「それではお言葉に甘えて・・・。ああ、そうだ。
 もしよろしければ、六条の姫君に文でも書かれてはいかがですか?
 ちょうど宿下がりされているそうですよ」
「・・・いや、今夜は止めておこう」
「さようですか」
実は帯刀の恋人は、に仕える女房なのであった。六条にある小さな邸には住んでおり、内裏から宿下がりしている際には帯刀は何度も文使いを務めていたのだ。それがきっかけで、現在の恋人である相模と知り合ったのである。
以前は『殿』と帯刀は呼んでいたのだが、相模が『姫さま』と呼ぶので、帯刀もそれに習うようになっていた。
「このところ、六条へは文をお書きにならないのですね」
「・・・ああ」
友雅はそう答えたきり黙りこんでしまった。
六条の姫君となにかあったのかもしれないな・・・。
帯刀はそう思ったけれど、口には出さなかった。友雅がなにも言わないのなら、気にはなるが、口にするべきではない。
「では、俺はこれで。飲みすぎないでくださいよ」
「ああ、わかっているよ」
友雅は軽く手を振って、帯刀を見送った。
帯刀だけを残して他の者を下がらせておいたのは正解だったかもしれない。なかなかに口うるさい従者だが、親身になってくれる貴重な存在だ。思うところはあるのだろうが、口に出さない賢明さも気にいっていた。
「――六条の姫君、か」
はいまごろなにをしているのだろうか。自分とおなじように、この美しい月を見上げているのだろうか。
彼女のことを想うと、鉛の塊でも呑み込んだような重苦しい気持ちになる。
「・・・・・・」
脳裏に浮かぶのは、優しい微笑を浮かべたではなく、泣き腫らしたの顔だった。泣かせるつもりなどなかったのに、あんなに酷く泣かせてしまった。
「すべては自業自得か・・・」
友雅は自嘲的の笑みを浮かべ、酒をあおった。
誰かを愛したい――そう願ったのは自分だったのに。
青白い月は友雅の心など素知らぬ顔で、美しく優しい光を放っていた。邸はシンと静まりかえっていて、ともすると、この世に自分ひとりきりのような心地さえした。

『ただ誰かに愛されたかったのだ、誰かを愛したかったのだ・・・』

ふいに、いまはもう居ない男の言葉が思い出された。
「季史殿・・・あなたの願いは叶ったのか・・・?」
人の欲望の渦に巻き込まれ、呪詛によって命を絶たれた多季史――彼の望みはただ『舞う』ことだった。
彼が生きていた頃、そう親しくしていたわけではなかった。けれど、ただひとつの事柄に夢中になっている季史を羨ましく思ったことを覚えている。
龍神の神子と出会い、彼女を愛し、愛されたから、怨霊となった彼は自ら浄化を望んだのだろうか・・・?
残念ながら、その疑問に答えてくれる者はもういない。
「・・・」
友雅は深いため息をついた。
と出会い、誰かを心から愛する悦びを知った。そして、その想いが通じぬ苦しみも知った。
――だが、それは幸福なことなのだろう。
本当の恋の悦びも、そして苦しみも知らぬまま、贋物の恋だけを追いかけていれば楽な人生が送れたかもしれない。けれど、それを知ってしまったいま、贋物ではもう満足することができないのだ。

いつかまた、自分は以外の誰かを愛するのだろうか・・・?

そんな日は永久にこないような気がして、友雅は苦笑を浮かべた。



月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

(月は昔の月と違ってしまったのだろうか?春もまた昔の春とは違ってしまったのだろうか?
 私の身だけはもとと変わらぬのに、すべては変わってしまった。
 愛するあのひとはもういない・・・)




【あとがき】
前回に引き続き、暗い感じのお話しでごめんなさい(汗)
『幸福論』というお題はとっても難しかったですわ・・・。
次こそは明るい展開にしたい・・・な!

今回の歌は『伊勢物語』から在原業平の作です。
藤原の姫と業平は恋仲だったのですが、姫は帝の女御として入内させられ、
ふたりの仲は引き裂かれてしまいます。
姫が住んでいた邸を訪れ、誰もいないその場所で業平が読んだ歌です。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。
 2008年2月27日