君がいるだけで
その日、友雅が内裏にあるの房を訪れると、はなにやら熱心に絵巻物を見ていた。
「・・・?」
よほど夢中になっているらしく、友雅の来訪にも気がついた様子はない。こっそりとのぞきこんでみると、それはどうやら内裏で大流行している『源氏物語』らしかった。友雅も一通り読んでみたことはある。
「と、友雅さま?!」
ようやく友雅に気づいたに、友雅はいたずらっぽく笑って見せた。
「私の来訪にも気づかないほど、その物語は面白いかい?」
「こ、これは・・・」
は慌てて絵巻物を閉じると、自分の背後へ隠そうとした。が、それよりも早く、友雅は絵巻物を取り上げ、はらりと紐解いた。名のある絵師が描いたものらしく、物語の様々な場面が美しく描かれている。
「ほう・・・これはなかなか手の込んだ・・・」
友雅が感心したように呟くと、は小さくため息をついた。
「それは当然ですわ。この絵巻物は藤壺中宮さまのものでございますもの」
「中宮様の?」
ヤレヤレといった様子で友雅は肩をすくめた。
「内裏のご婦人方に人気だとは聞いてたけれど・・・。
藤壺中宮様まで、このようなものを作らせるほどとは」
友雅の様子を見て、はくすっと笑い声をもらした。
「あら、他の女御さま方も夢中だそうですわよ」
「ふぅん・・・それで、あなたも夢中で読んでいたわけだね」
「わたしくはそんな・・・」
そこで、友雅はおや?と思った。『源氏物語』というのは、光源氏の恋の遍歴の物語である。この時代、恋多きことは恥ずべきことではない。しかし、の理想はというと、互いにただひとりの恋人として愛しあう恋愛だ。そこから考えると、この『源氏物語』はの好みからはずれているような気がするのだが・・・。
はいつになく落ち着かない様子で、どうにかして話題を変えようとしているように見受けられた。不審に思った友雅は、あえて『源氏物語』の話を続けた。
「光源氏のような殿方に女人は憧れるようだね」
「そ、そのようですわね」
「・・・あなたも?」
友雅にまっすぐ見つめられ、は気まずそうに視線をそらした。いつになく歯切れの悪いに何かピンときたようで、友雅はを強引に抱き寄せた。
「きゃっ?!」
友雅とは想いを交わし恋人同士となっていたが、友雅は内裏ではふたりの関係を隠すことに細心の注意を払っていた。内裏という場所には噂好きの人間も多いし、下手な噂をたてられて再びを傷つけるようなことはしたくなかったのだ。だから、内裏での逢瀬――逢瀬というには物足りないが――は昼間にほんのひととき、ふたりで他愛もない話をして過ごすだけだった。
そんな友雅に抱き寄せられたは驚いたようで、あわててその腕の中から逃れようとする。
「と、友雅さまっ?!」
「私の恋人は隠し事が下手だね?」
友雅の言葉に驚いたはなんとか表情を隠そうとしたが、友雅に先手を打たれる。
「普段のあなたはとても有能な女房で表情を消すのもうまいけれど、
私には通用しないよ。だって・・・」
「・・・?」
不意に言葉を切った友雅にが顔をあげると、友雅は艶やかな笑みを浮かべていた。
「だって、私はあなたのすべてを知っているのだから・・・ね?」
「っ?!」
かぁっと頬に血が昇る。頬どころか、首筋までさくら色に染まっている。の愛らしい反応に、友雅はくすりと笑って目を細めた。
一方、抱きしめられたままのはこれ以上は無理だと思ったのか、小さくため息をつき、ぽつりぽつり話し始めた。
「・・・藤壺中宮さまが、わたくしに『源氏物語』を読むようにと」
「中宮様が?」
どうにもは言いたくなさそうなのだが、友雅は視線でその先をうながす。
「源氏の君と友雅さまが似ているから、とおっしゃって・・・」
ここまで話してしまったのだから、もう黙っていられないと思ったのだろう。は諦めた様子で言葉を続けた。
「『光源氏のような殿方を愛しても、幸せにはなれないのよ』と
おっしゃって・・・」
「おやおや・・・私はそこまで嫌われているのかい」
はなんと答えてよいものかわからず、困ったような表情をした。友雅は小さく笑って、の美しい黒髪をそっと指で梳いた。
「いったいどんな男であれば、あなたの小姑殿は納得していただける
のだろうね」
「こ、小姑・・・!?」
もったいないことを、と思いながらも、は思わず笑い声をたててしまった。
「違うかい?藤壺中宮様はあなたよりも年下でいらっしゃるけれど、
ことあなたのことになると、まるで心配症の姉君のようにふるまわれる」
「友雅さま、そのようなこと、中宮さまの御前では絶対におっしゃらないで」
「もちろんだよ。これ以上、睨まれては困るからね」
肩をすくめた友雅を見て、はまたくすくすと笑う。最初のころは恥ずかしさのせいかぎこちなかったけれど、最近では打ち解けた様子をみせてくれるようになった――抱きしめた腕にかかる重みにさえ、友雅はしあわせな気持ちになってしまう。
――物語の光源氏のように数々の浮名を流してきた。美しく華やかな恋人と洗練された会話、そんな恋ばかりしてきた。彼女たちのなかには、心から自分を愛してくれた者もいただろう。でも、自分はそれと同じ愛情を返すことができなかった。失くして惜しい恋など、ひとつもなかった。
けれど、と友雅は思う。この腕の中のちいさなぬくもりは失いたくない。自分の胸の内にあふれるこの想いの温かさに、友雅は気恥ずかしいようなくすぐったいような心地がする。
そして、ふと友雅は、が黙ったままなことに気づいた。
「どうかしたのかい?」
いいえ、とは答えたが、友雅はの視線の先にあるものに気づいた。それは『若菜』の巻物だった。『若菜』は、紫の上という存在がいながら、光源氏が女三宮を正妻に迎えるという巻である。
友雅はを抱きしめる腕を、ほんの少し強めた。
「友雅さま?」
どうかしたのかと顔を上げたに、友雅はそっと甘いくちづけを落とした。
「――私には、あなたさえいればよいのだよ。
こうしてあなたが私の隣で微笑んでいてくれさえすれば」
は幸せそうな微笑みを浮かべると、その身を友雅に預けた。友雅は、の艶々とした黒髪をそっとなでながら、わざと軽い口調で言葉を続ける。
「けれど、若く美しいあなたには、柏木のような才気溢れる公達が
現れるかもしれないね」
「友雅さま・・・」
軽い口調のなかに隠された友雅の不安を感じ取ったのか、はゆっくりと首を振り、甘えるかのように友雅の胸に顔をうずめた。
「わたくしは、こうして友雅さまのお傍にいられるだけで
充分でございますわ・・・」
「ふふ、可愛らしいことを言う。あなたは欲のない人だね。
私はもっとあなたを甘やかしたいと思っているのに」
は恥ずかしそうに微笑んだ。
「わたくしは欲張りですわ。いつも友雅さまを独り占めしたいと
思っておりますもの・・・」
は女房としては有能で、意見を求められればハッキリと述べる。けれど、恋愛事については苦手なようで、自分の感情を言葉にすることは少ない。そんな彼女にしては甘い囁きに、友雅はつい口元が緩んでしまう。
「・・・友雅さま?」
恥ずかしいのを我慢して自分の気持ちを口にしたのに、友雅からは何も反応がなくて。自分の言葉がなにか友雅を不快にさせたのかと、が不安に思って顔をあげると、そこには幸せそうな微笑みを浮かべた友雅がいた。
「まったく・・・これ以上、私をあなたの虜にしてどうするつもりだい?」
そう呟いて、友雅は愛しい恋人にそっと甘いくちづけを贈るのだった。
暖かな春の日の午後、愛しいひとを腕に抱いて過ごすひとときは、なんとしあわせなのだろうか。
【あとがき】
源氏物語1000年記念で書いてみました(ウソ)
やっぱりこのシチュエーションが書きやすいなぁ・・・。単にイチャイチャなふたりを
書きたかっただけなんですが(笑)
源氏物語をあまりご存じない方に補足ですが、正妻の葵の上が亡くなったあと、
紫の上を実質的な正妻(ただし身分が低いため、正式な妻にはなれない)としていたのですが、
光源氏は女三宮という内親王を正妻に迎え、そのことで紫の上はひどく傷つきます。
一方、光源氏は子供っぽい女三宮に保護者のように接していたのですが、女三宮に恋した
自分よりもずっと若い公達の柏木に彼女を奪われ、女三宮は子供を身ごもってしまいます。。。
と、まぁ源氏物語に状況を重ねた感じで書いてみました。
個人的には「源氏物語」より「落窪物語」のほうがオススメなんですけどね。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
2009年4月25日